関西地域は、古墳時代にヤマト王権が支配を開始して以来、朝廷や都が設置される拠点であり、長い歴史を通じて日本文化の発展を支えてきた地域である。
特に奈良県と京都府は、平城京や平安京といった都がおかれ、多くの寺社や仏閣が建立された。
これらの一部は世界遺産に登録されており、その中には法隆寺も含まれている。
法隆寺は西暦600年代に聖徳太子(厩戸皇子)が発願し建立された。
この寺は、その頃から現存しており、1400年以上の歴史を持つ非常に貴重な建造物である。
今回は、世界遺産に登録され、歴史的に高い価値を持つ法隆寺の歴史を詳しく探求する。
仏教伝来と蘇我氏と物部氏の対立(崇仏論争)
法隆寺が建立されたのは飛鳥時代であり、仏教が日本に伝来して間もない頃である。
仏教は、第29代欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に百済から伝えられたが、その受け入れを巡って朝廷内では大きな対立が生じた。
当時の二大官職であった大臣(おおおみ)蘇我氏と、大連(おおむらじ)物部氏との間で、仏教を受容するか排除するかで激しい対立が生まれたのだ。
※蘇我氏は仏教受容の崇仏派、物部氏は仏教排除の排仏派
※崇仏排仏論争にはいくつか説があり、物部氏は仏教自体を排除しようとしたのではなく、その祭祀方針についての対立だったという説もあるが、ここでは通説で解説する。
この争いは、第30代敏達天皇(びだつてんのう)の時代にさらに激化した。
敏達天皇の治世中、疫病が広がり、国中を脅かす事態となったのだ。
この疫病の原因について、物部守屋(もののべの もりや)は、「大臣の蘇我馬子が仏教を擁護したためだ」と天皇に進言し、百済から贈られた仏像を廃棄した。
しかし仏像の廃棄後、疫病はさらに広がり、ついには国内に蔓延してしまう。
すると今度は、人々の間で「仏を粗末に扱ったことが疫病の原因だ」という噂が広まり、廃棄を許可した敏達天皇自身も疫病に感染し、そのまま崩御してしまったのである。
丁未の乱
次に皇位を継承した第31代用明天皇は、仏教擁護の立場をとっていた。
用明天皇は、母が蘇我稲目の娘であったことから、蘇我氏との深い関わりを持っていた。また、幼少期から身体が弱かったこともあり、仏教を擁護したのである。
即位後、用明天皇は自身の健康を祈願するために「寺の建立」を発願したが、即位からわずか2年後に病に倒れ、その願いを果たすことなく崩御してしまった。
軍の管理を任されていた物部守屋は、第29代欽明天皇の子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)を次の天皇として即位させるため、軍を動かそうと試みた。
しかし、この動きを察知した蘇我馬子は先手を打ち、穴穂部皇子を殺害してしまう。
これを知った物部守屋は自らの本拠地に逃げ帰り、戦いの準備を始めた。しかし、蘇我馬子率いる朝廷軍に敗れ、ついに物部守屋は討たれた。
この内乱は「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれ、これ以後、物部氏は衰退していく。
その後、蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推薦し、第32代崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位させた。
崇峻天皇の暗殺、推古天皇と聖徳太子
崇峻天皇は、蘇我馬子の推薦により即位したものの、仏教に対して擁護の立場を取らなかった。
そして、仏教の取扱いに関する見解の違いや、蘇我馬子の政治的影響力の増大などで対立が深まると、崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺されてしまったのである。これは正史に明記された、日本史上唯一の「臣下による天皇暗殺」である。
この暗殺事件の後、皇位継承したのが推古天皇である。
推古天皇は、敏達天皇の后であり、用明天皇の姉であったため、皇位に就く資格を充分に有した人材であった。
彼女は、用明天皇の子であり、自身の甥にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を摂政に任命し、政治に参画させた。
その後、厩戸皇子は立太子し、後に「聖徳太子」と呼ばれるようになる。
聖徳太子は父・用明天皇と同様に仏教を深く崇拝しており、父の遺志を受け継いで法隆寺を建立した。
また、薬師如来像も、聖徳太子の発願で造仏された。
この時に作られた薬師如来像の光背銘には、聖徳太子による造仏であることが記録されている。
原文
池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉。
現代訳
用明天皇が病気になった時(丙午年、586年)、病気平癒を願って寺(法隆寺)と薬師如来像を造ることを誓ったが、果たせずに崩御した。その後、推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に寺と薬師如来像を建立した。
法隆寺建立から現代までの歴史
聖徳太子によって建立された法隆寺の最初の伽藍(がらん)は、607年に創建された。しかし、670年に火災によって焼失した。
この焼失については、『日本書紀』に「斑鳩寺が焼失した(※当時は斑鳩寺と呼ばれていた)」との記述があり、これは法隆寺の焼失を示していると考えられている。
その後、約40年が経過した710年頃に法隆寺は再建され、現在に至っている。
再建された伽藍は現在も存続しているが、710年以降も幾度かの火災や災害により伽藍の一部が焼失しており、すべての建物が現存しているわけではない。例えば、925年には講堂と鐘楼が焼失し、1435年には南大門が焼失している。
また、直近の大きな焼失事件としては、1949年に発生した壁画の焼損事故が挙げられる。この事故は、壁画の修復作業中に引火したことが原因で発生したものである。
このように、これまで幾度となく焼失の危機に見舞われたものの、五重塔や金堂などの多くの木造建築物は、第二次世界大戦中の空襲による戦火からも逃れ、世界最古の木造建築物として今日まで残っているのである。
世界最古の木造建造物「西院伽藍」
法隆寺の西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築である。
1993年には「法隆寺地域の仏教建造物」として、日本で最初の世界文化遺産に登録された。
法隆寺には、現在、国宝や重要文化財に指定されている建築物、仏像、美術品などが約200件も保存されており、まさに文化財の宝庫であると言える。
子どもの頃に修学旅行で訪れたきりという方や、これまで訪れる機会がなかった方も、ぜひ一度、世界遺産である法隆寺を訪れ、その歴史と文化を直接感じ取っていただきたい。
参考文献
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
文 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。