
画像:織田信長公像 写真AC
かつて、織田信長が天下統一のために拠点を置いた近江八幡市の、東海道本線安土駅から2.5kmほど、西の湖と県道2号線に挟まれた農地の一画に「新開の森」と呼ばれる雑木林がある。
「新開の森」の読み方は、本来は「しんかいのもり」である筈だが、なぜか人々からは「シガイのもり」とも呼ばれている。
その「死骸」を想起させる通称と、広々とした畑や田んぼの中に突如鬱蒼とした樹林が現れる不自然さからか「いわくつきの場所」、もしくは「禁足地である」と噂されているのだ。
だが、新開の森には石碑や小さな祠があるものの、現在は特に立ち入りが禁じられているわけではない。
一説には、安土城に拠点を置いた織田信長が処刑場として使用していたことから「木を切っただけでも不幸が起きる呪われた土地」ともいわれている。
田んぼの只中に浮かぶように存在する不可思議な林に、どんな秘密や歴史が隠されているのだろうか。
今回は、滋賀県の不思議スポット「新開の森」について掘り下げていきたい。
新開の森がある場所
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新開の森は、滋賀県近江八幡市内、琵琶湖南東側に位置する浅小井町の、広々とした田園地帯の一画にある。
近隣にはかつて琵琶湖の一部であった西の湖や県道2号線があり、安土城跡や摠見寺、沙沙貴神社や浄厳院など、織田信長ゆかりの史跡や寺社も数多く存在している。
安土城跡は言わずもがな、信長が天下統一を目指す際に拠点を置いた、安土城が建っていた跡地だ。
信長が安土に居城を築き始めたのは、長篠の戦で武田氏を下し、室町幕府に取って代わる新政権の構築に乗り出したあたりの時期である。
信長は、元々近江地方の守護であった宇多源氏佐々木氏流の六角氏から観音寺城とその支城を奪い、安土山にあった支城を拡張整備して安土城として築城し、天下布武を遂行するための本拠地とした。
信長が安土城に本拠を移した理由としては、従来の岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運を活用できるうえに、北陸街道から京へ向かう要衝に位置していたことが挙げられる。こうした地理的条件により、当時日本の中枢であった京を押さえつつ、上杉謙信や一向一揆といった脅威にも備えるためだったと推測されている。
さて新開の森に話を戻すと、その近くに安土城があったことから、「新開の森はかつて信長が処刑場として利用した忌み地であり、祟りを恐れて農地化されず、鬱蒼とした林の状態で残されているのではないか」と人々の間で伝えられてきたのである。
新開の森の中に立つ石碑

画像:天満宮の祭神 菅原道真像(菊池容斎『前賢故実』巻第五) public domain
このように、一部では禁足地と噂されている新開の森だが、実は誰でもその中に入ることができる。
樹木や竹が生い茂る林の中に人間が徒歩で通れるほどの林道があり、その林道の先に少し開けた場所があるぐらいで、しめ縄や境界の類があるわけではない。
ただ、その開けた場所には「今宮大明神 天満宮 御旅所」と刻まれた石碑が、ぽつねんと佇んでいる。
ちょうど新開の森から徒歩12分ほどの場所に、今宮天満宮神社が鎮座している。
今宮天満宮神社は創立年代不詳の神社ではあるが、古来より佐々木家崇廟として信仰されてきた歴史があり、建保6年(1218年)の再建遷宮の際には六角氏の祖である佐々木泰綱の父で、鎌倉幕府近江守護であった佐々木信綱が参詣したという話が伝わっている。
御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼で使用される神輿が、本宮から渡御する際に一時的に鎮座する場所のことである。

画像:日枝神社 (高山市) の御旅所 public domain
御旅所には祭りや氏子地域にとって重要な場所が選ばれることが多く、新開の森も何らかの理由で今宮天満宮神社の御旅所として選ばれ、そのことを示す石碑が建てられたのだろう。
だとすれば、いくら信長といえど、神様の一時休憩所となるような神聖な場所を、わざわざ処刑場にするだろうか。
信長は仏や神に帰依しない無神論者だったと言われているが、それは比叡山焼き討ちや一部の仏教宗派を弾圧したからであり、弾圧の理由はそれらが信長の天下統一事業の弊害になっていたからだ。
信長は欧州から伝来したキリスト教を庇護したり、安土山にも摠見寺を建立したりと、まったく信仰心がなかった様子でもない。
ただ宗教を妄信せず理性的に捉えていて、時には政治利用していたことが史実からはうかがえる。
では、新開の森で処刑が行われたという話が眉唾かといえば、そうとも言えない根拠となっているのが、新開の森の外にある祠が建立されるに至った理由である。
祠と殉教者の石碑

画像:銅造阿弥陀如来坐像 pixabay
新開の森の外には、2体の地蔵が納められた小さな祠と、人名が刻まれた石碑がある。
この石碑には「大脇伝助 建部紹智 殉教碑」と書かれているが、この2名は1579年に浄厳院で行われた「安土宗論」の発端となった人物である。
『信長公記』によれば、1579年の5月中旬頃、浄土宗浄蓮寺の長老が関東から安土に出向いて説法をしていた際に、法華宗信徒の大脇伝助と建部紹智が議論をふっかけてきたとされる。

画像 : 安土宗論 イメージ 草の実堂作成(AI)
長老は「宗論をするなら難しい話になるから、信頼できる法華宗の僧侶を連れてきてほしい」と2人に伝え、各寺の法華宗の僧侶がそれに応えたことから騒ぎが大きくなり、噂は信長の耳にも届くまでとなった。
信長は安土城下で大きな騒ぎが起こることを危惧して「家臣の法華宗信徒を斡旋するから、大げさなことはしないように」と、浄土宗と法華宗の両宗に使者を通して伝えたという。
信長の使者からの報せを受けて、浄土宗は信長の意思に従うと答えたが、法華宗は「自分たちが宗論で負けるわけがない!」と言って従わなかった。
そこで信長は、高名な禅宗の僧侶を審判役として派遣して、浄厳院の仏殿に浄土宗と法華宗の僧侶たちを集めて宗論を行わせた。
その結果、法華宗の僧侶が問答に詰まり負けとなった。

画像:安土宗論が行われた浄厳寺(滋賀県近江八幡市)wiki c 先従隗始
宗論の結果の報せを受けた信長は、大脇伝助を召し出し「浄蓮寺の長老に敬意も払わず、京や安土を巻き込んで大きな騒動を起こした不届き者」として、真っ先に斬首した。
建部紹智は堺の港まで逃亡したがあえなく捕まり、こちらも伝助と同じく騒動を起こした不届き者として斬首に処された。
新開の森にある祠の隣にある石碑は、刻まれた名前と殉教という文言からして、信長に斬首の刑に処された2人の信徒のために、法華宗関係者によって建立されたものである。
彼らが斬首された場所が新開の森であったか、新開の森で斬られた首が晒されたのかどうかについては記録が残っていない。
しかし、信長の領地で騒動を起こした者が見せしめのために、人が多く往来する街道近くの新開の森で、晒し首にされた可能性は否定できないだろう。
竹生島事件との関連
新開の森には、「信長が安土城を抜け出して遊び回っていた侍女を処刑した場所」という伝説もある。
この話は、『信長公記』に記された「竹生島事件」に由来するものと考えられる。

画像:竹生島全景 wiki c Saigen Jiro
竹生島は琵琶湖北部にある無人島で、古来より神の棲む島として信仰されてきた。
島内には都久夫須麻神社と宝厳寺があり、竹生島弁才天は日本三大弁財天の1つに数えられている。
1581年4月のある日のこと、信長は小姓たちを連れて竹生島に参詣したという。
安土城から馬に乗って長浜城まで行き、そこからは船に乗って湖を約20km渡り、竹生島に参拝する行程であったが、往復約120kmにもなる道のりを、なんと信長一行は日帰りで帰ってきた。
安土城の侍女たちは信長たちが長浜城で宿泊するだろうと考えて、無許可で城を抜け出して二の丸まで足を運んだり、安土城下の桑実寺薬師に参拝したりしていた。
信長は侍女の怠慢に激怒して、抜け出した侍女たちを捕らえて縛り上げ、侍女を匿った桑実寺の長老もまとめて成敗したという。
ただし、この成敗という文言には処罰という意味もあり、それがすなわち処刑を示しているのかどうかはわからない。
信長に職務怠慢を咎められた侍女たちがいたのは確かなようだが、処刑された確証はない上に、たとえ侍女たちが処刑されていたとしても、新開の森で処刑されたかどうかも不明なのである。
信長の残虐性を後世に伝える場所にされた?

画像:信長公記/陽明文庫所蔵 public domain
新開の森のまつわる伝説には、信長の冷徹さと残虐性を象徴する逸話と絡む話が多い。
「安土宗論」や「竹生島事件」の話は信長の一代記である『信長公記』に記されているが、そもそもこの『信長公記』は信長の死後に編纂されたものだ。史料としての信憑性は高いが、当時の権力者への忖度がまったく無いというわけではない。
著者の太田牛一は信長の旧臣であったが、信長の死後には丹羽永秀や豊臣秀吉に仕えている。
『信長公記』に収録された逸話には、信長の残虐性を際立たせて書かれているものもあるが、それには秀吉の意向が強く影響していると考えられている。
今では新開の森は「心霊スポット」ともされ、ふざけて近くを通っただけで事故に遭ったり、恨みを抱いた女性の霊が出るという話も聞くが、元々は神様の休憩所であり、新開の森が処刑場として使われたという記録は残っていない。
ただし記録が残っていないということが、すなわちその場所で処刑が行われていなかったという証拠になるわけでもない。
「御旅所」の石碑が残されているということは、新開の森が神域であることは間違いないといえる。
もし現地を訪れることがあれば、ふざけて軽々しく立ち入るようなことのないようご注意いただきたい。
参考 :
太田 牛一 (著) 中川 太古 (翻訳)『地図と読む 現代語訳 信長公記』
吉田 悠軌 (著) 『禁足地巡礼』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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