信長のエンタメ気質を引き継いだ秀吉

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
天下布武を目前に迫った織田信長は、若かりし頃から奇抜な風体と独特のファッションセンスで知られていた。
織田弾正家の家督を継いでからは、武芸奨励の意味も込めて、家臣を率い自ら遠乗りや狩り、水泳などをたびたび行ったという。
また相撲をこよなく愛し、時には安土城下において1,500人もの力自慢を集め、大規模な相撲大会を催したことが『信長公記』にも記されている。
さらに宣教師の帰国祝いに安土城をライトアップしたり、正月の来訪者に対して場内を有料公開するなど、常識では考えられないようなエンタメ性あふれる催しも行った。
こうした派手ともいえる信長のエンタメ気質を引き継いだのが、天下統一を成し遂げた後継者である豊臣秀吉であった。
派手なパフォーマンスは人心掌握術

画像 : 織田信長 public domain
尾張中村の百姓の子として生まれ、流浪の末に織田信長と巡り合い、異例ともいえる出世を遂げて天下人にまで上り詰めた秀吉にとって、信長は多くを学び、吸収すべき存在であったに違いない。
秀吉の生涯を振り返ると、天下を取った後の行動は決して褒められるものばかりではない。
しかし、「太閤はん」として親しまれたその人柄も相まって、現代でも秀吉を愛する人は少なくない。
秀吉の性格を端的に表すなら、「愛嬌があり、人たらしで、世渡り上手」ということになるだろう。
ある種の恐怖感や不気味さを漂わせる信長とは、この点で大きく異なっている。
そのような秀吉にとって、天下人として繰り広げた派手なパフォーマンスは、人々を惹きつけるための大きな武器であったといえる。
一般庶民の参加を許した北野大茶会

画像:北野大茶湯之図
秀吉が信長から受け継いだ文化的事業の代表は、やはり茶の湯であった。
若き頃から茶の湯に親しんだとされる信長にとって、それは単なる嗜みではなく、地位や権威を示し、家臣や配下の武将たちとの結びつきを強めるための手段でもあった。
信長は、名高い茶人が所蔵する茶器を、その豊富な財力で次々と買い集めた。
価値ある茶道具を所有することは富と権力の象徴であり、茶会でそれを披露することで家臣を統制したのである。
さらに、戦功の褒美として土地ではなく高価な茶器を与えたり、功労のあった家臣のみに茶会への参加を許したりした。
こうして信長は、茶の湯を政治的に独占する「茶の湯御政道」を築き上げた。
秀吉もまた、この「茶の湯御政道」を踏襲する。
天皇の御前でお手前を披露する「禁中茶会」のため、千利休とともに黄金の茶室を作らせたのがその象徴である。
侘び寂びを重んじる茶の湯のための茶室を、あえて黄金で飾り立てるという成金趣味は秀吉らしいとも言えるが、同時に彼の財力と権威を示す強烈な象徴でもあった。
やがて天下統一を成し遂げた秀吉は、茶の湯を広く庶民に開放する。
秀吉にとってお茶は、権威を誇示する手段にとどまらず、民衆と交流し、乱世から平和へと移り変わった世を演出する役割を担ったのである。

画像:北野天満宮 public domain
その代表例が、1587年(天正15年)10月、京都北野天満宮の社叢・北野の森で催された「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」であった。
身分・宗派・居住地を問わず、広く一般の人々に参加が許された空前の規模の茶会であり、秀吉自身も茶席を設け、多くの人々とともに茶を楽しんだ。
当初は10日間の開催が予定されていたが、諸事情により一日に縮小された。
とはいえ、その盛況ぶりは凄まじく、「北野大茶湯」は秀吉ならではの画期的な催しであった。
まさに、日本史上最大規模のフェアといっても過言ではないだろう。
エンタメの極致・醍醐の花見&名護屋城コスプレ

画像:『醍醐花見図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)
日本におけるお花見の風習は、すでに平安時代からあったとされるが、これを大規模なイベントとして催したのが、1598年(慶長3年)3月、京都・醍醐寺三宝院で豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」である。
秀吉はこの日のために、近江をはじめ畿内各地から桜の木を700本も集めて醍醐寺に植林し、さらに花見の宴にふさわしい建物や庭園まで造営した。
そこに諸大名はもとより、家臣や側室など総勢1,300名を招き、豪奢な宴を一日中楽しんだと伝えられている。
このわずか5か月後、61歳で波乱の生涯を閉じた秀吉にとって、「醍醐の花見」は人生最後の一大エンターテインメントであった。
現在でもこの催しは「豊太閤花見行列」として再現され、年中行事として受け継がれている。

画像:肥前名護屋城図屏風
さて、最後に秀吉の「派手好き」「エンタメ好き」を象徴するもう一つの催しを紹介しよう。
1593年(文禄2年)6月、朝鮮出兵のさなか、前線基地である肥前名護屋城で開かれたコスプレパーティー「瓜畑の遊び」である。
長期にわたる駐屯生活で鬱屈する将兵の気晴らしを狙い、秀吉は名護屋城近くの瓜畑に即席の店舗や宿屋をしつらえ、大名や武将たちに庶民の姿に扮させて寸劇を楽しませたという。
『太閤記』『絵本太閤記』によれば、まず秀吉自身が柿渋で染めた帷に藁の腰蓑、黒頭巾に菅笠という「瓜売り」に扮し、「味よしの瓜、召され候らへ、召され候らへ」と売り歩いた。
そこへ織田有楽斎が老僧に扮して現れ、瓜を布施として受け取るや「熟れておらぬ」と苦情を言うやり取りが続く。
徳川家康は「あじか売り」、蒲生氏郷は茶の行商人、前田利家は高野山の僧に扮し、秀吉とともにおどけた芝居を披露した。
中でも圧巻だったのは、巨漢で髭面の前田玄以が女装して尼僧になりきり、おネエ言葉で説法をして歩く姿である。
その珍妙さに、秀吉をはじめ大名や観客は腹を抱えて笑い転げたと伝わる。

画像:前田玄以像(蟠桃院蔵) public domain
天下人となっても上下関係を超えて無礼講を楽しんだ秀吉。
甥・秀次一族の粛清や朝鮮出兵といった晩年の苛烈な行為の一方で、生来の「愛嬌と人たらし」の一面を、こうした場では惜しげもなく発揮していたのである。
※参考文献
日本史研究会著 『「日本史」の最新裏常識』宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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