安土桃山時代

『武田氏滅亡の要因をつくった武将』穴山梅雪はなぜ武田家を裏切ったのか?

知勇を兼ね揃えた武田一門衆で武田氏重臣

画像:穴山梅雪 public domain

穴山梅雪(信君)という名を聞いて、すぐに誰のことか答えられる人は、かなりの歴史通だろう。

しかし、この人物は武田信玄・勝頼の二代にわたって仕え、有名な武田二十四将の中でも筆頭格に位置づけられる武田家の重臣である。

穴山氏は、武田信玄と同じ先祖を持つ甲斐源氏の名族で、とりわけ梅雪の母・南松院(なんしょういん)は信玄の姉であり、妻・見性院は信玄の娘という、武田氏と極めて密接な血縁関係を結んだ一門衆であった。

また、穴山氏は武田家の一門衆でありながら、甲斐国南部の河内地方を領する国人領主でもある。

この河内地方には、中山金山・早川金山・黒柱金山などの金山があり、武田氏にとって経済的に極めて重要な地域であった。

梅雪の父・信友の代には、穴山氏は下山館などの城館を構え、そこを本拠としていた。

そして、武田氏とは別に独自の家臣団や行政機構を整えるなど、強い自治性を持った領主家としての体制を築いていたのである。

画像:第四次川中島の戦い public domain

『甲陽軍鑑』によれば、梅雪は1561年(永禄4年)に起きた「第四次川中島の戦い」において、信玄の本陣を守ったと記されている。

この戦いは「八幡原の戦い」とも呼ばれ、川中島合戦の中でも最も規模が大きく、信玄の弟・信繁や山本勘助といった重臣が討死した激戦として有名だ。

また、真偽のほどは定かでないが、信玄と上杉謙信が一騎打ちを繰り広げたとも伝えられている。

それほどまでに第四次川中島の戦いは、両軍が入り乱れる大混戦であったことがうかがえる。

そのように重要な戦いで、信玄本陣の守備を任されたという事実自体が、梅雪がいかに武田氏から厚い信頼を寄せられていたかを示している。

もっとも、梅雪の資質は武勇にとどまらず、調略にも優れた智将としての一面を強くうかがわせる史実もある。

それは武田家臣団の中にあって、梅雪が他国の大名との交渉や情報収集を担っていたという点である。

このような梅雪の活躍が、のちの「本能寺の変」へとつながる一因となっていくと考えられるのだが、この辺りはまた別稿で述べることとしよう。

武田勝頼との様々な確執で武田家を離反

画像:武田勝頼像(高野山持明院蔵)public domain

武田家の外交的支柱として活躍した穴山梅雪が、歴史にその名を残したのは、皮肉にも主君・武田勝頼に対する裏切り行為によるものであった。

梅雪の、武田氏に対する最初の「裏切り」ともいえる行動は、1575年(天正3年)5月の「長篠の戦い」において見られる。

このとき梅雪は、穴山衆を率いて武田信豊・小幡信貞とともに武田軍の中央に布陣していた。

戦いでは山県昌景や馬場信春ら多くの武田重臣が奮戦の末に戦死したが、梅雪は積極的に攻勢に出ることなく撤退し、穴山衆の多くも無事に本領へ帰還している。

画像:長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)public domain

梅雪はこの戦いに先立ち、勝頼に対して織田信長との決戦を避けるよう進言していたと伝えられる。

戦中にも勝頼を諫めたが、その意見は聞き入れられず、両者の間には深い溝が生まれてしまった。

戦後、武田四天王の一人で海津城主の高坂昌信は、勝頼に対し、武田信豊と梅雪を切腹させるよう進言したという。

勝頼はこの意見を退けたが、信玄以来の宿将である昌信が梅雪の責任を問うたことからも「敗戦の原因の一端が梅雪にある」と、武田家中で認識されていた可能性は高い。

その後、梅雪は勝頼との関係修復を図り、嫡男・勝千代(かつちよ)と勝頼の娘との婚姻を画策したが、これがうまくいかず、両者の関係はさらに悪化してしまった。

なお、「梅雪」という名はこの頃、出家して号したもので、正式には「梅雪斎不白(ばいせつさいふはく)」と称した。

織田家内通の功績でその従属大名となる

画像 : 織田信長 public domain

穴山梅雪が武田氏に対する裏切り行為、すなわち織田信長・徳川家康に内通を始めたのは1581年(天正9年)の末ごろとされている。

つまり、嫡男・勝千代と武田勝頼の娘との婚約が反故にされたことが、梅雪にとって家康へ通じる契機となったのだ。

翌1582年(天正10年)、信長は家督を譲った嫡子・信忠を総大将として、本格的な甲斐侵攻を開始した。

これに先立ち、梅雪は甲府に人質として留め置かれていた妻子を密かに逃亡させている。

徳川家康を介し、甲斐一国の拝領と武田氏の名跡継承という条件を信長に提示し、それを認められたことで内応に応じたのである。

この経緯からも、梅雪が極めて用意周到で、計略に長けた人物であったことがうかがえる。

そして同年2月、信忠が伊那方面から武田領に侵攻。

それに呼応し、織田氏と同盟する家康や北条氏直も武田領に侵攻を開始し、甲州征伐が始まった。

画像:天目山勝頼討死図(歌川国綱画)public domain

孤立無援に陥った武田勝頼はなすすべもなく、3月11日、武田氏ゆかりの地・天目山近くの田野において、嫡男・信勝、正室・北条夫人をはじめ、最後まで従った家臣たちとともに壮絶な自刃を遂げた。

これによって、新羅三郎(源)義光を祖とする甲斐武田氏は、約500年・20代にわたる歴史に幕を下ろしたのである。

武田氏滅亡後、梅雪は信長から甲斐河内領および駿河江尻領の安堵を受け、織田家の従属大名として家康の与力に位置づけられた。

しかし、そのわずか3ヵ月後、「本能寺の変」による混乱の中で自領への脱出に失敗し、非業の最期を遂げることになったのである。

※参考文献
平山優著 『穴山武田氏』戎光祥出版刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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