本能寺の変で自領に帰還中に殺害される

画像:穴山伊豆守梅雪(甲越勇將傳武田家廾四將・歌川国芳作)public domain
武田氏の一門衆でありながら、「長篠の戦い」での消極的な戦いぶりや、嫡男と武田勝頼の娘との婚姻問題など、さまざまな確執を抱えていた穴山梅雪(信君)は、やがて織田信長に内通するようになった。
その結果、1582年(天正10年)2月の甲州征伐においては勝頼に味方することなく、武田氏は滅亡してしまう。
梅雪はかねてより徳川家康を介して信長と連絡を取っており、武田勝頼滅亡後には、甲斐河内領と駿河江尻領の本領安堵を受け、織田家の従属大名として家康の与力に組み込まれた。

画像 : 織田信長 public domain
信長は、裏切りという行為に対して厳しい処断で知られている。
甲州征伐後も、最後に武田勝頼を裏切った小山田信茂や、信玄の弟で影武者ともいわれたが結局は逃亡した信廉(のぶかど)ら、武田親類衆の多くを処刑している。
しかし梅雪の場合は、主家滅亡直前の裏切りではなく、長い交渉の末に降伏したため、信長は本領の安堵を認めたのである。
同年5月、梅雪は家康とともに安土城の信長のもとへ参上し、本領安堵の謝礼を述べた。
安土に滞在した梅雪は信長に気に入られ、手厚い接待を受けたと伝えられている。
そして6月1日、信長のすすめにより、家康とともに堺見物に出かけた。
その最中、明智光秀が信長を討つ「本能寺の変」が起こったのである。

画像 : 徳川家康肖像画 public domain
梅雪を含む家康一行がこの変事を知ったのは、堺を遊覧した翌日の6月2日、京都へ向かう途上であったという。
梅雪は家康のすすめに従い、ともに畿内を脱して自領へ帰還しようとしたが、途中で家康と別行動を取り、宇治田原付近で郷民一揆に襲われて命を落とした。
その最期については、『信長公記』では一揆による生害、『家忠日記』では自害と伝えられている。
一方の家康は、いわゆる「神君伊賀越え」を敢行し、無事に三河へ帰還した。
智謀をもって武田氏滅亡という難事を生き抜いた梅雪の最期としては、あまりにあっけない幕切れであった。
光秀が信長を討った「本能寺の変」の真相はいまだ定説を見ないが、史学博士・磯田道史氏は、穴山梅雪の存在こそがこの事件の大きな要因であったとする説を唱えており、以下に私見を交えつつ、その概要を紹介しよう。
武田氏の外交を担当し信玄の西上作戦でも活躍

画像:穴山梅雪 public domain
穴山梅雪という武将を語る際、その資質は単なる武勇にとどまらず、調略にも長けた智将としての一面を強くうかがわせる。
その根拠として、武田家中において梅雪が他国大名との交渉や情報収集を担当していた点が挙げられる。
穴山氏の本領である甲斐河内領は、今川氏の領国・駿河と国境を接していた。
そのため、梅雪は武田信玄が駿河へ侵攻し今川氏真を追った後も、駿河・遠江方面で織田・徳川勢力と対峙する際に、その取次役を務めていた。
さらに、1570年から1573年(元亀年間)のいわゆる「信長包囲網」においては、近江の浅井氏・六角氏・比叡山延暦寺、畿内の三好氏、越前の朝倉氏、大坂の本願寺といった反織田勢力と、武田信玄との間の取次を行った記録が残されている。
これらのことから、梅雪は信玄の西上作戦においても重要な役割を果たしていたと考えられる。
明智光秀の武田氏内通が本能寺の変の原因?

画像 : 明智光秀 public domain
では、梅雪は「本能寺の変」と、どのような係わりを持っていたのだろうか。
この点について、磯田氏は肥後熊本藩主の細川家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』などに記された、明智光秀の謀反に関する記述に一見の価値があるとする。
そもそも光秀と細川氏の縁は深く、光秀が流浪の境遇であった時、細川藤孝(幽斎・ほそかわふじたか)に仕えていたという記録がある。
光秀が信長のもとで異例の出世を遂げた後も、両家は同盟関係にあり、光秀の娘・ガラシャが藤孝の嫡子・忠興に嫁ぎ、山崎の戦いで光秀が敗死した時もその残党が細川家を頼っている。
細川家では本能寺の変後、光秀謀反の理由を明智家家老斎藤利三(としみつ)の三男・斎藤利宗(としむね)から聞き出している。
利宗は山崎の戦いの後、降伏し、忠興に預けられた人物で、大奥を創設した春日局の兄にあたる。
後に秀吉に許され、江戸幕府になってからは5000石の大身旗本となって斎藤家の命脈を繋いでいる。

画像 : 細川忠興 public domain
その利宗が、「武田の一族である穴山梅雪が信長に降参した。その穴山の口から光秀の武田への内通が露見するのを恐れ、取り急ぎ謀反心を起こした」(『綿考輯録』)と語っている。
つまり、光秀はいつの頃からか武田家と内通していたというのである。
もっとも、その時期については、信玄の存命中からであったのか、あるいは勝頼の代になってからなのか、詳らかではない。
ただし、甲州征伐が終わった天正10年(1582)2月を境に、光秀と信長との関係が急にぎくしゃくし始めたことは注目に値する。
宣教師ルイス=フロイスの『日本史』には、この頃、信長と光秀が密室で口論となり、信長が光秀を足蹴にしたと記されている。
さらに同年5月、光秀は安土城での家康饗応役を解かれ、代わって秀吉の毛利征伐を支援するよう命じられている。
このような経緯を踏まえると、信長と光秀の関係悪化の背景には、武田氏滅亡の影響があった可能性が高いと考えられる。
光秀の出自については定かではないが、美濃の明智氏の出であり、斎藤道三に仕えていたという説が有力である。

画像:快川紹喜 public domain
斎藤家は道三の孫・龍興の代に信長によって滅ぼされたが、その龍興を助けるため、信玄との同盟を取り持ったのが、斎藤・武田両家と縁の深い禅僧・快川紹喜(かいせんじょうき)であった。
紹喜は一説によれば、光秀と縁戚関係にあった信長の正室・帰蝶(濃姫)の回忌を執り行ったともいわれる。
このような関係から、光秀は紹喜を通じて武田家に接近し、外交役であった梅雪となんらかの情報交換を行っていた可能性もうかがえるのである。
ただ、光秀が武田家と内通していたとしても、信長と信忠を討った後には、光秀にとって梅雪は味方となる存在であったはずである。
しかし、梅雪は「本能寺の変」を知ると家康と別れ、急ぎ自領への帰還を図った。
その途中、郷民一揆に襲われて命を落とすことになる。
梅雪の死については、家康によって殺害されたという説も根強く残っている。
また、古くから光秀と家康の関係は良好であったともいわれており、それが「本能寺の変」における光秀と家康の共謀、いわゆる「徳川家康黒幕説」へとつながっている。

画像:天海像(木村了琢画・賛、輪王寺蔵)public domain
さらに、光秀は実は死んでおらず、後年、家康の側近として仕えた天海僧正になったという説も存在する。
もちろん、これらの説はいずれも確証があるわけではなく、真相は不明と言わざるを得ない。
ただし、穴山梅雪という武将が、なんらかの形で「本能寺の変」と深く関わっていたという見方は、あながち的外れではないといえるだろう。
※参考文献
磯田道史著 『日本史を暴く』中央公論新社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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