安土桃山時代

秀吉を震え上がらせ、家康を救った巨大地震「天正地震」と「慶長伏見地震」

3月に入ると、桜の開花ニュースも増え、春の訪れが身近に感じます。

ひな祭り、ホワイトデー、卒業式、お花見などイベントが次々にあるシーズンなので、なんとなく気持ちも華やぐ時期。

けれども忘れられないのが2011年3月11日に起こった東日本大震災です。震災から今年で15年。

11日には追悼の催しや特別番組が各地で行われ、震災を体験した世代も知らない世代も「忘れずに受け継いでいく」ための企画や、防災対策の必要性を伝える特集などが随所で組まれます。

日本は昔から地震が多い「地震大国」です。
最古級の記録では『日本書紀』に記された684年(天武天皇13年)の大地震があります。
その後の史料にも各地の地震が数多く記録されており、千数百年のあいだに大きな被害をもたらす地震が繰り返し起こってきました。

今回は、豊臣秀吉と徳川家康の運命を大きく変えたともいわれる『天正地震』『慶長伏見地震』を見ていきます。

前田利家の弟や、山内一豊も悲劇に見舞われる

画像 : 天正地震の震度分布 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧 416‐2001』wiki c CC BY 3.0

天正地震』は、安土桃山時代の天正13年(1586)旧暦11月29日に発生した巨大地震です。

規模は研究者により異なるものの、おおむねマグニチュード7.8〜8前後と推定されており、現在では複数の断層が連動して発生した可能性も指摘されています。

震源域は、近畿、東海、北陸にかけての広い範囲で、現在の福井・石川・愛知・岐阜・富山・滋賀・京都・奈良・三重県などに甚大な被害を及ぼしたと伝えられています。

たとえば、富山県高岡市にあった「木舟城」は、地盤が9メートルも陥没して城は倒壊。城主であった前田利家の弟・前田秀継夫妻や家臣たちは圧死しました。遺体が見つかったのは3日後のことでした。

さらに、秀吉の天下取りで功績をあげ、「長浜城」(滋賀県長浜市)を与えられた城主・山内一豊も悲劇に襲われます。
自身は京都にいたのですが、城は倒壊。
妻・千代は自力で脱出したものの、娘の与祢(よね)は死亡してしまいました。

まだわずか6歳で、乳母の胸に抱かれたまま棟木に押しつぶされて息絶えていたそうです。

その亡骸を見つけたときの一豊と千代の悲しみのほどは、想像もつきません。

画像 : 山内一豊の夫妻。「今古誠画 浮世画類考之内 天正三年之頃(山内一豊)」(小林清親)public domain

秀吉は一切を投げ出して大坂城へと馬を走らせた

当時、日本を訪れていたポルトガル生まれのキリスト教宣教師ルイス・フロイスは、著作の『日本史』に、以下のような内容を記録しています。

(今回の地震は)往時の史書にも読まれたことのないほど凄まじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁外れで大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。

このとき秀吉は、かつて明智光秀の居城であった坂本城(琵琶湖の西側に位置)にいました。
おそらく、徳川家康攻めに向けて居城の大坂城を出発していたところだろうと推測されています。

ところが、突然のすさまじい地震。

秀吉は「一切を投げ出して、あわてて馬に乗り、最も安全な場所だろうと思われる大坂城に飛ぶように避難した」と伝えられています。

画像 : 長浜城の模擬天守(長浜城歴史博物館)wikic 663highland

「家康を成敗する!」の手紙の翌日に大地震

この『天正地震』がなければ、二ヶ月ほど後には、家康は圧倒的に優勢な兵力を誇る秀吉軍の総攻撃を受け、滅亡の危機に陥っていたかもしれません。

実は、この地震(旧暦11月29日)の約2週間前、家康の側近として幼い頃から仕えてきた石川数正が出奔して、秀吉側に臣従しており、家臣たちの間でも動揺が走っていました。

さらに秀吉は、真田昌幸に対して「人数(軍勢)を出し、家康を成敗することに決めた。出馬のことだが、年内は日がないので、正月十五日以前には(徳川攻めに)必ず出陣する」と、援助を求める手紙も出しています。※真田昌幸宛秀吉書状

ところがその翌日に大地震が起き、秀吉は戦どころではなくなったのでした。

またこの地震により、徳川攻めの拠点として建てた大垣城が、水辺の地盤が弱い場所にあったため倒壊。

大垣城には兵糧蔵を建て、米を5000俵ほど蓄えていたそうです。
兵糧も補給路も絶たれ、正室の寧々も「戦どころではない。民を救うのが先」と進言し、秀吉は戦いをやめて領民生活を立て直すことを優先しました。

こうして家康は運良く戦を回避できました。

もし地震が起こらず、秀吉が徳川を討っていたなら「江戸時代はなかったかもしれない」ともいわれています。そのため『天正地震』は、近世日本の政治構造の行方を左右した出来事として語られることもあります。

265年間続いた徳川の江戸時代が存在しなかったとしたら、その後の明治や大正、昭和、そして現在の日本も、まったく違う姿になっていたのかもしれません。


画像 : 大垣城、1945年7月の空襲で焼失する前の天守と艮櫓 毎日新聞社 public domain

二度目の大地震は余生を過ごす城が倒壊

その後、秀吉は大きく方針を転換します。

徳川を武力で滅ぼすのではなく、懐柔策をとり、妹の朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに母のなかも人質として送り込みました。

そして天正14年(1586)10月、家康は大坂城で秀吉に謁見し、臣従を誓ったのです。

それから10年後の文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)、秀吉は再び大地震『慶長伏見地震』を体験します。

山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震で、推定マグニチュードは7.5前後、畿内の広範囲で震度6くらいの揺れであったと推計されています。

この地震で、京都では秀吉が隠居用に築城した伏見城の天守や東寺、天龍寺などが倒壊し、死者は1,000人を超えたそうです。

天正地震の恐ろしさを経験している秀吉は、文禄元年(1592)年、伏見城の普請に際して担当の京都所司代の前田玄以に「ふしみのふしん なまつ 大事にて…」という手紙を書いています。

「なまつ(鯰)」、つまり地震対策を重視せよという意味で、地震と鯰を関連づけた記述としてよく知られています。

しかし、文禄4年(1595年)に完成した伏見城は倒壊。秀吉は側室・淀殿との子、愛児の秀頼を抱いて庭に飛び出し九死に一生を得たそうです。

このとき、謹慎中の加藤清正が裸馬にまたがり手勢を引き連れ、一番に秀吉の元に駆けつけたため、感激した秀吉は清正の謹慎を解いたという逸話も残っています。(後世の創作という説も)

画像 : 慶長伏見地震。秀吉のもとに、加藤清正がいち早く駆けつけたエピソードの浮世絵(月岡芳年)public domain

大仏が破損した怒りで眉間目掛けて矢を放つ

この地震で、秀吉肝入りの「方広寺の大仏」も甚大な被害を被りました。

秀吉は奈良の大仏より大きな大仏を造るため、工期短縮の目的もあり、鋳造ではなく木の枠に漆を塗り金箔を施す方法で初代の大仏を造らせていました。

けれども、それが災いして地震の被害を被ってしまったのです。

『義演准后日記』には、「大仏殿は無事だったが、内部の大仏は大破。左手や胸の部分は崩れ落ち、ひび割れが生じ、築地塀は倒壊」という記述があります。

秀吉は、あっけなく大仏が破損したことに、自分の威信を傷つけたと腹を立て「自分の身も守れず大勢の人間を救えるか!」と、暴言を吐き、眉間目掛けて矢を放ったという逸話も残っています。

晩年の秀吉は暴君のような振る舞いが目立ったともいわれますが、それにしても破損している大仏の眉間に矢を射るなど、あまりにも罰当たりな振る舞いです。

とはいえ「もともと秀吉には信仰心はなく、大仏は自身の権力を象徴するためのツールだった」「自分の身も守れず大勢の人間を救えるか、というセリフも後世の創作」といった説もあります。

結局、秀吉は大仏を撤去し、慶長2年(1597)代わりに善光寺(現在の長野県)の善光寺如来を遷座させました。

ところが、翌年の慶長3年(1598)に病の床に臥し、「これは祟りではないか」という噂が京都の民衆の間に広まります。

そのため、同年の8月17日に善光寺如来はもとに戻されるのですが、秀吉は8月18日に62歳(61歳とも)に亡くなったのでした。

ちなみにこのあとも、亡き父の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に挑戦するも鋳造中の大仏から出火……など因縁めいたことが続きます。

画像 : 花洛一覧図に描かれた方広寺大仏殿。右隣に見えるのが三十三間堂。京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ CC BY 3.0

『天正地震』『慶長伏見地震』が豊臣政権衰退のきっかけに?

「人たらし」「太陽のように明るい」などのイメージもある天下人・秀吉。

けれど晩年は、千利休の切腹、甥の豊臣秀次に対する処罰、秀次の子女や妻妾ら30人以上を京都の三条河原で処刑事件などの残忍な行為、多くの将兵の生命を失った朝鮮出兵の断行、伏見城を再建する際には「今までよりも豪華にしろ」と命ずるなど、民衆の心は次第に豊臣から離れていきました。

このときはすでに、ドラマ『豊臣兄弟!』の主役、弟の豊臣秀長は亡くなっています。

歴史に「もし」はありませんが、秀吉のコントロール役であった秀長が生きていたら、晩年に秀吉は暴走せず、徳川への期待が諸大名に広がっていくことを防いだかもしれません。

いずれにしても『天正地震』『慶長伏見地震』という二つの大地震は、秀吉政権の動向に少なからぬ影響を与えた出来事でした。

戦国の政局が動く中で、こうした自然災害もまた時代の流れに影を落としていたのです。

参考:
今こそ知っておきたい災害の日本史』岳真也(PHP文庫)https://amzn.asia/d/01Hd0to3
日本史を地学から読み直す』鎌田浩穀(講談社現代新書)
・1596年文禄伏見地震に関する地震像の検討――伏見・京都での地震被害を中心に(PDF)

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桃配伝子

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