安土桃山時代

備中松山城と鶴姫について調べてみた

備中松山城(岡山県高梁市)は、標高480mの臥牛山(がぎゅうざん)の懐深く曲輪群を形成する。

そして二層天守の白と黒のコントラストが木々の緑に鮮やかに浮き立つ。天守は江戸後期の築城だが、戦国期、すでに臥牛山の4つの峰々は要塞化されていた。

三村元親(みむらもとちか)が城主の時、この城を中心とした毛利氏、宇喜多(うきた)氏との戦いを備中兵乱と呼ぶ。そして、一連の最後の戦いは、元親の妹「鶴姫」が侍女を率いて奮戦した常山城の戦いだった。

毛利・宇喜多連合軍との戦い

備中松山城

【※備中松山城 wikiより引用】

永禄4年(1561年)、三村家親(みむらいえちか)は毛利元就の支援によって尼子(あまご)方の城だった松山城を奪って本城とし、毛利の先鋒として、備前・美作(みまさか)へ進出する。

だが、宇喜多直家(うきたなおいえ)の刺客によって、美作の興禅寺(こうぜんじ)で狙撃され殺された。家督を継いだ息子の元親は、宇喜多氏を許さざる敵と憎んだ。だが、毛利氏は敵対していた宇喜多氏と手を結んでしまったことから、元親は当時名声が轟きだした織田信長によしみを通じる。しかし、まだ信長には中国地方に進出するには時期尚早であり、三村氏は孤立化してしまった。

天正2年(1574年)から翌年にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村氏の戦いが備中を中心に展開される。松山城を囲む三村氏の城は次々と落とされ、天正3年5月、松山城が主戦場となった。毛利氏は力攻めをせず、内応工作をして内部からの崩壊を待つ。

時に備前幸山城(こうざんじょう/岡山県総社市)の石川久式(いしかわひさのり)は、副将格として妻子を伴い、家臣300人を引き連れて松山城の天神の丸に籠城した。

久式の妻は元親の妹(鶴姫の姉)だったからである。

備中松山城 陥落す

異変は、久式が小松山の本丸に出向いたときに起きた。毛利軍に内応した三村方の兵士2人が、野菜運搬人に変装して門番を騙して郭内に侵入すると、久式の妻と娘を拉致したのである。

気付いた30人ほどの家臣が奪い返そうと追跡したが、逆に2人の合図で、山の斜面を這い登ってきた毛利軍に攻め込まれて天神の丸は一気に陥落してしまう。

本丸にいた元親は、天神の丸の奥にある大松山の将士と謀ってこれを挟み撃ちにしようとした。だが、大松山では毛利軍の襲来に怯えて離反するものが続出。その動揺は本丸にも及び、天神の丸奪還どころではなくなった。元親は夜を待って松山城を脱出し、5月22日、備中松山城は陥落する。

途中で怪我をした元親は菩提寺の松連寺で自刃し、久式は家臣の密告で毛利の追っ手に討たれ、拉致された妻娘の消息は伝わらない。

松山城陥落の翌月、毛利軍6,500は、三村一族の最後の拠点、上野高徳(うえのたかのり)の備中常山城(岡山県玉野市)に押し寄せる。高徳は元親の従弟で、元親の妹である鶴姫を妻にしていた。

鶴姫の決意

【※常山全景 wikiより引用】

6月6日、常山城の大手木戸が破られ、二の丸が占拠される。味方は200余に過ぎず、高徳自ら鉄砲で応戦したが落城は目前だった。

翌7日、高徳は一族自決を決意。57歳の継母が、柱に刀の柄を固定させ、刃先に突進して胸を貫く。嫡子の高秀は腹を切り、高徳の16歳の妹は継母が使った血まみれの刀で自ら胸を突いて果てた。

その様子を凝視していた鶴姫は『常山戦記』において

「高徳の妻女三十三歳になりたまふは、男に越えたる武勇也。われ武士の妻なり、最後にかたき一騎も討たずして、やみやみと自害せん事口惜しき」

とその心情を述べている。彼女は鎧に長さ1.1mあまりの太刀をつけ、丈と同じ長さの黒髪を討ち乱し、三枚甲の緒を結び、紅の薄絹を打ちかけ、白柄の長刀を小脇に挟み広庭に躍り出た。

女房たちは「女が戦えば死後、修羅の責め苦から逃れられませぬ」と止めると、鶴姫は「己は邪正は同じと観念し、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦しみも極楽の営みと思えば何も苦しくはない」と振り切った。

宗勝との一騎打ち

城主夫人の堅い決意に続けとばかりに、女房全員34人が我先に駆け出す。

これを見た累年厚恩の家僕たち83人も鶴姫に殉じようと、女房たちとともに一斉に毛利の先陣、浦野宗勝 率いる兵700に切り込んだ。今、彼女たちは「女軍戦士」と呼ばれている。

鶴姫は先陣に立ち「かけ破れ、ものども」と大声で鼓舞し、死を恐れぬ女軍たちに寄せ手は混乱して数十人が討たれ、手傷を負う者も多数に上った。このとき、女軍も何人かが討たれている。

敵将の宗勝は相手が女性であると大変驚き、戦闘停止を命じた。その馬上の宗勝を見つけて、鶴姫は一騎打ちを申し出る。しかし、宗勝は「御身は強きにせよ、女ならば相手はできぬ」と逃げ、追う鶴姫に横合いから雑兵が斬りかかる。その7、8人を長刀でなぎ伏せるが、自らも浅手を負ってしまった。

鶴姫の最期

【※女軍戦士の墓 wikiより引用】

鶴姫は、腰から刀を抜くと、宗勝に「これは父家親が秘蔵の国平の名刀、宗勝殿に差し上げる。後世を弔ってくだされ」と言い置くと、女軍たちに退却を命じ、城に引き返した。

鶴姫は、夫である高徳のもとに戻ると、一緒に南無阿弥陀仏を念じ、太刀を咥え、そのまま身をうつ伏せにして命を絶ったという。妻の最期を見届けて高徳も切腹し、詳細は不明だが、女軍戦士も城主夫妻を追って自刃したようだ。

現在、常山城の北二の丸跡には城主の三村高徳と妻鶴姫の墓があり、その周りを囲むように女軍戦士34人の墓がある。

一方、備中松山城は、三村一族が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の重要な拠点となり、現在では日本三大山城の一つとされている。

関連記事:毛利氏
毛利氏―安芸の国人から中国地方統一まで―

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