日本には、三大埋蔵金伝説というものがあります。
その3つとは、『徳川埋蔵金』『豊臣埋蔵金』、そして『結城家の埋蔵金』のことです。
前回、『徳川埋蔵金』について書いてみましたので、今回は、『豊臣埋蔵金』について調べてみました。
豊臣埋蔵金と多田銀山(現在の多田銀銅山)
豊臣秀吉は1代で、関白太政大臣まで上りつめた立身出世の代名詞とも言える人物であり、日本人であれば誰でも知っている戦国武将です。
しかし、秀吉は、子宝に恵まれず、晩年になるまで実子を得ることができませんでした。
秀頼は、秀吉の跡継ぎでしたが、秀吉が他界する直前ではまだ子供であり、秀吉はその行く末をとても心配していました。徳川家康などの有力大名が台頭してくる中、秀吉は豊臣家の行く末を案じて、当時の勘定奉行に朝鮮出兵の残りの軍用金、4億5千万両を多田銀山に隠すように命じたという言い伝えが元になっています。
多田銀山は、豊臣政権より銀の生産を始めましたが、その生産量が極端に少なかった(銀476枚(約76Kg)ことから、関ヶ原の戦い以降も徳川幕府は、石見銀山および生野銀山のように天領とはしませんでした。
埋蔵金伝説は、多田銀山が関ケ原の合戦以降も豊臣家のものであったことから生まれた伝説だと言えます。因みに多田銀山は、寛文年間に入ってから生産量が増したため、4代将軍徳川家綱公の時代に天領となりました。
多田銀山の埋蔵金伝説には、古文書や絵図面の存在がついてまわることや、1949年5月18日の「よろん新聞」という日刊紙への税務署員の投稿などにより、その存在がクローズアップされています。
豊臣埋蔵金の価値はいくらか?
それでは、前回の徳川埋蔵金同様、現在の価値はいくらなのか? について計算してみたいと思います。 なお、徳川埋蔵金との比較をしやすくするため、前回の数字を使っています。
1 お米の価値からの推定額
前回の徳川埋蔵金を算出したときの数字を使って計算してみた結果は以下の通りです。
まず、米一升は、約1500グラム、1.5キログラムとされていますので、この数字を使います。
平成29年1月の相対取引価格は、全銘柄平均価格で、14,366円(玄米 60kg)であることから、米一升の価格に換算すると、14,366円/60㎏*1.5㎏= 約359.15円 となります。
江戸時代の貨幣価値と物価表(京都故実研究会)によれば、江戸時代の1両の価値は66,000円(換算年度表示なし、江戸時代平均値)ですから、
1両の価値 | ||||
米一升 = 1.5キロ | 1,650 | 円 | 1両=銭4000文(16.5円) | 66,000円 |
↓ | ↓ | |||
統計数字より | 359.15 | 円 | 1両=銭4000文(3.5915円) | 14,366円 |
上記により、1両を14,366円と仮定します。
また、江戸時代初期の慶長小判金1両は、約10万円とされていることから、
江戸時代初期の数字に再換算すると、21,767円となります。
理由 : 100,000円と66,000円を比較すると、66,000円は100,000円の0.66倍となります。
計算式 14,366円/0.66*1=21,767円
21,767円(2017年1月末1両の価値)×450,000,000両= 9,795,150,000,000円
お米の価値から算出すると、9兆7951億5千万円となります。
2 金・銀の価値からの推定額(すべて天正大判の場合)
インターネットサイトの世界大百科事典 第2版の解説に数字が掲載されていますので、この数字を使って、計算してみたいと思います。
豊臣秀頼の時代は、天正大判又は慶長小判が使われていたと仮定します。
2017年4/1の金の価格は、1グラム4,888円(店頭価格 三菱マテリアル調べ)となっています。
また、銀の価格は1グラム72.79円です。
大判の規定量目は、44匁(165g)です。
1両の金の価値の特定 : 4,888円×165g×73.84%(含有率) = 約595,534円
595,534円×450,000,000両 = 267,990,300,000,000円
1両の銀の価値の特定 : 72.79円×165g×26.16%(含有率) = 約 3,142円
3,142円×450,000,000両 = 1,413,900,000円
金と銀の合計:267,990,300,000,000円+1,413,900,000円= 269,404,200,000,000円
すべて天正小判であった場合、その価値は269兆4,042億円と算出することができます。
3 金・銀の価値からの推定額(すべて慶長小判の場合)
前回同様、ウィキペディアの慶長小判のサイトに数字が掲載されていますので、この数字を使って、計算してみたいと思います。
慶長小判は、江戸時代初期に鋳造された貨幣です。
2017年4/1の金の価格は、1グラム4,888円(店頭価格 三菱マテリアル調べ)となっています。
また、銀の価格は1グラム72.79円です。
小判の規定量目は、四匁七分六厘(17.76g)です。
1両の金の価値の特定 : 4,888円×17.76g×86.28%(含有率) = 約74,900円
74,900円×450,000,000両 = 33,705,000,000,000円
1両の銀の価値の特定 : 72.79円×17.76g×13.20%(含有率) = 約 171 円
171円×450,000,000両 = 76,950,000,000円
金と銀の合計 :
33,705,000,000,000円 + 76,950,000,000円 = 33,781,950,000,000円
算出結果は、33兆7819億円5千万円という数字になりました。
本当に4億5千万両なのか?
ここでは、本当に4億5千万両なのか?について書いてみたいと思います。
天正大判の鋳造枚数ですが、天正菱大判と天正長大判を合わせても95,000両となっており、4億5千万両にははるかに及びません。
慶長小判の鋳造枚数は、14,727,055両であり、やはり4億5千万両には届きません。
故に、もし軍用金があったとしても金塊の状態で保管されていた可能性が高いと推測します。
分銅金にした場合
インターネットサイト『ゴールドに関する情報サイト GOLD NEWS』によれば、
『法馬金は分銅の形をしており、豊臣秀吉が最初に鋳造し、徳川幕府においても造られました。大判1000枚で作られた千枚分銅金(約165kg)、大判2000枚で作られた二千枚分銅金(約330kg)の「大法馬金」と、重さ375gの「小法馬金」とがあります。この「大法馬金」には「行軍守城用勿用尋常費」(戦費以外に用いるな、という意味)」の文字が鋳込まれ、あくまでも非常用・軍事用に備蓄されたもの』
との記述があります。
豊臣埋蔵金が大法馬金であったと推測すると、天正大判は、1枚165gで、これが4億5千万枚あったことになります。
分銅金は、330,000gですから、
分銅金1個 = 天正大判 2000枚
4億5千万両は、大法馬金に換算すると、225,000個分となります。
分銅金をつぶして純金100%の大判を造った場合を想定しています。
どこに埋蔵されているか?
埋蔵金伝説によれば、多田銀山に21か所に分けて埋蔵されたと言われています。
埋蔵されたものが、分銅金と推定し、21か所に分けると、225,000/21=10,714個
1か所に平均10,714個を置いた計算になります。
多田銀山までどうやって運んだか?
1回あたり、10,714個の分銅金をどうやって多田銀山に運んだかですが、馬の背に330Kgを乗せたら馬はつぶれてしまいます。
大八車で米俵6表360Kgを運ぶには、江戸時代では人手が3名必要でしたから、豊臣埋蔵金運ぶには、10,714個×3人=32,142人の人工と、10,714個の大八車が必要となります。
まとめ
どうやら、数字から推測すると、大阪から40キロ以上離れた多田銀山に3万人の人手をかけて21回も分銅金を運びいれたと考えることには無理がありそうです。
こんなに人手をかけたら、埋蔵した場所からすぐに大量の金が持ち出されてしまいます。
筆者は、埋蔵したのではなく、金銀の鉱脈が発見されたのでは? と考えるのが妥当だと思います。 故に、江戸幕府もまた天領にすることによって、その鉱脈の一部を開拓したのではないかと推測します。
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