秀吉の官位
羽柴秀吉は、天正13年(1585年)7月に「関白」へ就任し、続いて翌天正14年(1586年)12月に太政大臣となり、このときに「豊臣」の姓を受けて豊臣秀吉を名乗ることになりました。
この3年前、天正10年(1582年)6月に織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が発生、この後秀吉が光秀を討つことで、まず織田家家臣としての自らの地位を引き上げ、以後対立した柴田勝家らを破って天下人
となったことが知られています。
本能寺の変から「関白」に秀吉が就任までの期間はわずかに3年程でした。しかも秀吉が官位を初めて得たのは、天正12年(1584年)10月に従五位下左近衛権少将に叙位任官された時でした。
秀吉が如何にして「関白」まで駆け上がったのかを見ていきたいと思います。
「関白」と「摂政」
そもそも「関白」とは、どのような役職でしょうか。
「関白」以外にも「摂政」という似た役職も存在しています。
両方とも朝廷・天皇を補佐するという意味においては同様ですが、大きな相違点は天皇の年齢にありました。天皇が幼いことから置かれる役職が「摂政」で、天皇の代理人的というべき位置づけです。
一方、天皇が成長してから後に置かれる役職が「関白」であり、天皇の補佐をする位置づけとなっています。
これら「摂政」・「関白」の役職は「五摂家」と称された、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家が交代で務める、いわば一部の公家に独占された役職でした。
この前提は、秀吉・秀次が就任したことを除けば、明治維新に至るまで継続されたもので、秀吉らの就任こそが異例中の異例でした。
朝廷の威光と権威
秀吉は高い官位を欲して朝廷への工作を続け、天正12年(1584年)11月には従三位・権大納言、翌天正13年(1584年)3月には正二位・内大臣と、短い期間で官位・役職の階段を上っていきました。
秀吉は元々武士の出身ではなく低く貧しい身分の出自故に、朝廷の威光を纏うことで自らの権威を高めて全国の大名達や公家衆らを従えようとしたものと考えられます。
関白相論
天正13年5月の時点での官位・役職の序列は以下の様になっていました。
1.関白・二条昭実
2.左大臣・近衛信輔
3.右大臣・菊亭晴季
4.内大臣・羽柴秀吉
この時点においては「関白」である「1.関白・二条昭実」が後1年程でその位を辞し、替わって「2.左大臣・近衛信輔」が「左大臣」を兼ねたまま「関白」に就任する予定であり、それに伴い秀吉を「右大臣」にすることが既定路線と考えらていました。
これに対して秀吉は「右大臣」は旧主織田信長がその位にあった際に死した縁起の悪い職であるとして「左大臣」への就任を要望しました。
この要請を受け入れて「内大臣」の秀吉が「左大臣」に昇進した場合、近衛信輔にとっては二条昭実が早々に「関白」を辞任、禅譲してくれなければ、自らは官位を失ってしまします。
その状態となっては昭実の辞任を待つしかない事を意味していました。
加えて信輔は「近衛家で無官から関白になった例はない」と主張、即時の昭実の辞任「関白」禅譲を求めました。
これに対し昭実は「関白」就任から一年にも満たない為、「二条家では、関白就任から一年以内に辞任した者はない」と主張して、信輔の要求を拒否しました。
これが「関白相論」と呼ばれる争いです。
棚ぼたの秀吉
「関白相論」は、互いの主張が平行線のまま、解決が困難な状態に陥っていきました。
こうした中、問題の解決策として「3.右大臣の菊亭晴季」が以外な提案をしました。「一旦、秀吉を関白職に就任させる」という案でした。
しかしこの案にも、高い壁がありました。「関白」就任は、「五摂家」に限るというこれまでの朝廷のしきたりです。
秀吉は、武家として頂点に君臨した天下人といえど、出自は貧しい農民です。そこへ解決策を示したのは「2.左大臣 近衛信輔」の父・前久でした。
秀吉を近衛家の「猶子」(ゆうし・相続を目的としない義理の親子関係)として、将来息子の信輔に「関白」を譲らせるという方法でした。
前久・信輔親子は、秀吉の「関白」職就任は、あくまで一時的なものであり、やがて自家を含む五摂家へと「関白」を取り戻せると考えたのでした。
こうして秀吉は、近衛家の猶子・近衛秀吉として天正13年(1585)7月に「関白」への就任を果たしました。
正に公家の争いが生んだ棚ぼたというべき就任でした。
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