海賊大名の異名
九鬼嘉隆(くきよしたか)は、戦国時代から安土桃山時代に織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将・大名で、九鬼水軍を指揮した人物です。
後年の軍着物を中心に九鬼水軍の活躍が喧伝されたことで「海賊」大名として広くその名を知られることになりました。
信長に仕えていたと際に毛利氏の配下の村上水軍に一度は破れたものの、大型で船体を鉄で覆った鉄甲船を建造してこれを破った立役者でもありました。
最期は父子で関ケ原の東西両軍に別れるという展開を迎えた嘉隆ですが、その生涯について調べてみました。
志摩からの逃亡
嘉隆は天文11年(1542年)に父・九鬼定隆の次男として生まれました。これは徳川家康と同年の生まれです。
この頃の九鬼氏は伊勢の大名・北畠氏に仕え、志摩一体に勢力を持つ水軍のうちのひとつでした。
天文20年(1551年)、父・定隆が死亡し兄の九鬼浄隆が家督を継承しましたが、それまで九鬼氏の力を危惧していた周辺の勢力と主家・北畠氏が結びつきその地を追われることになりました。この最中に兄・浄隆は病死し、嘉隆は辛くも鳥羽方面へと落ち延びました。
村上水軍への敗北
嘉隆はその16年後の永禄11年(1568年)、京で信長に臣従するとその旗下の滝川一益の与力となりました。
信長の配下として伊勢・志摩の攻略戦に従軍した嘉隆は、翌永禄12年(1569年)に北畠氏を攻めて志摩の敵対勢力を制圧すると、信長の命を受けて正式に九鬼氏の当主となり旧領を回復することに成功しました。
その後 嘉隆は、天正4年(1576年)に第1次木津川口の戦いを迎えます。
この戦いは織田氏に反抗を続けていた一向一揆勢の元締めだった石山本願寺の包囲と封鎖を目的としたものでした。摂津の木津川沖で石山本願寺を支援するためのに現れた毛利配下の村上水軍約600隻に対し、信長勢の義隆ら鳥羽水軍は約300隻と半数ほどであり、数の上でも劣勢だった事に加えて、戦術においても巧みな火責めを仕掛けられて鳥羽水軍は壊滅、手痛い敗北を喫しました。
鉄甲船による勝利
この敗北を受けて信長は嘉隆に村上水軍の火攻めに対抗しうる船を造ることを命じました。義隆がここで建造した軍船が鉄甲船でした。この軍船は燃えないように船体に鉄板を施したもので、加えて大筒を搭載し、約5千人もの兵を運ぶことが可能な大型船でした。
そして2年後の天正6年(1578年)に再度摂津の木津川沖で村上水軍との海戦・第2次木津川口の戦いを迎えました。
信長・義隆の狙い通り、6隻の巨大な鉄甲船は村上勢の火責めを寄せ付けず、今度は村上水軍を壊滅させることに成功しました。嘉隆はこの功によって加増を受け、合計3万5千石を領する大名となりました。
朝鮮出兵での開戦
その後、嘉隆は信長の後を受けた秀吉に仕えると、九州征伐や小田原攻めなどの国内の戦に従軍しました。また奥州仕置を終えて秀吉が日本の統一を果たすと、天正20年(1592年)から行われた朝鮮出兵にも加わり、日本の水軍の大将として緒戦では朝鮮の水軍に勝利を収めました。
しかし、李舜臣が朝鮮水軍の指揮を行うようになると、閑山島海戦で敗れ、続く安骨浦においても敗北を喫しました。
その後、敵の上陸を阻止する戦術に切り替えた義隆らは再び朝鮮水軍を抑えることに成功しましたが、家督を子の守隆に譲ると一線を退き、慶長2年(1597年)からの慶長の役への従軍は行いませんでした。
関ケ原の戦い
秀吉が没後すると、慶長5年(1600年)に石田三成と徳川家康とが争う関ケ原の戦いが起こりました。
これに際し嘉隆は西軍に、守隆は東軍に付き父子で敵味方となる陣営に与しました。
これは、どちらが勝っても九鬼氏の一族を残すための苦肉の策だったと伝えられています。
結果は東軍の家康が勝利を収めたため、守隆は嘉隆の助命を家康に願い出ました。その願いは聞き入られたものの、その報せを聞く前に嘉隆は自刃して果てたと伝えられています。
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