用兵に秀でた武将 加藤嘉明
加藤嘉明(かとうよしあき)は豊臣秀吉に長浜時代から従った古参の武将で、秀吉が天下を手中にすることに繋がった柴田勝家との賤ヶ岳の合戦において「賤ヶ岳の七本槍」と称賛されたうちの一人です。
秀吉没後の徳川家康の治世においても、伊予松山藩と陸奥会津藩の初代の藩主を務めるなど重きをなした武将でした。
武将としての嘉明は自ら槍を振るっての武功から始まり、領地とした淡路の水軍を率いた海戦での活躍、また鉄砲隊の指揮にも秀でた用兵を見せたと伝えられています。
秀吉からの登用と初陣
嘉明は永禄6年(1563年)に三河の徳川家康の臣・加藤教明の嫡男として生まれました。
父・教明は当時多くの家臣が家康から離反した三河の一向一揆に際し、一揆勢に与したことで嘉明ともども流浪の生活を強いられることになったと伝えられています。
その後嘉明は秀吉に見いだされ、秀吉の養子であった羽柴秀勝の小姓として仕えることになったと伝えられています。このとき嘉明は天正4年(1576年)の秀吉の播磨攻めに際して、秀勝に断りもなく秀吉の軍勢に従軍したとされています。
秀吉の正妻・おねの方はこの主君を無視した行動を咎めましたが、秀吉はむしろ嘉明の気概を気に入ったようで嘉明の行いを赦すと、300石を与えて直臣に取り立てました。
嘉明はこの秀吉の起用に応え、天正6年(1578年)の三木城攻めで初陣を飾ると、続く備中須久毛山の戦いで、15歳にして敵の首級2つを取る武功を挙げました。
淡路水軍を擁す大名
嘉明は天正11年(1583年)に秀吉と柴田勝家が争った賤ケ岳の合戦で敵将・浅井則政の首級を挙げて、加藤清正・福島正則ら互して「賤ヶ岳の七本槍」と称えられ3,000石取りの大身となりました。
続く天正13年(1585年)6月の四国征伐においては小早川隆景の与力を務め、伊予方面への侵攻を行い、翌天正14年(1586年)11月にその功により淡路の津名・三原郡1万5,000石を領し大名に列しました。
こうして淡路を治めたことから淡路水軍を傘下とし、天正15年(1587年)の九州攻め、天正18年(1590年)の小田原攻めにおいては、その水軍を指揮して豊臣勢の勝利に貢献しました。
藤堂高虎との確執
嘉明は、文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵の文禄の役にも、九鬼嘉隆に次ぐ水軍の副将格の武将として出陣し、強敵となった李舜臣率いる朝鮮水軍との海戦においても善戦を見せました。
続く慶長の役で嘉明は、藤堂高虎との間に軋轢を生むことになりました。これは朝鮮水軍の300隻以上の船団に対して高虎が、こちらは大船で迎撃すべきと主張したことに対し、嘉明は中船で敵を誘い出して叩くことを提案、高虎の策が用いられることに決したことから起こりました。
嘉明はその決定を蔑ろにして、自分の手勢のみで単独行動に及び多数の敵船を捕獲しました。この戦果に軍監らも嘉明を軍律違反には問わなかったのですが、高虎が戦後に武功第一を主張すると、嘉明は自らが一番と主張して譲らなかったことで確執が生じたと伝えられています。
会津40万石への移封
嘉明は秀吉からはそれらの功を評され、文禄4年(1595年)に伊予の6万石、続いて10万石への加増を受け伊予水軍も傘下に収めました。
秀吉の没後、嘉明は家康に通じて東軍に与し、前哨戦としての岐阜城攻略を成功させました。続く関ケ原の戦いでも西軍主力の石田三成隊を敗走させ、その功から戦後家康からは伊予で20万石まで加増を受けました。この時に築城を行った城が今もも残る松山城です。
そして寛永4年(1627年)に東北の要衝である会津の蒲生氏が移封されることになり、嘉明が会津40万石へと伊予から倍増となる石高を与えられて移封されることなりました。
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