夜叉九郎の異名
戸沢盛安(とざわもりやす)は、安土桃山期に出羽の角館(秋田県仙北市の地名)を治めた武将・大名です。
戸沢氏の第18代目の当主であり、その勇猛果敢な戦ぶりから周辺の諸将から「夜叉九郎」とも称された人物でした。
わずか13歳にして戸沢氏の家督を受け継いた盛安は、小野寺氏や安東氏、秋田氏らの有力諸将らとの戦いを繰り広げ、戸沢氏の勢力の向上に努めました。
しかし秀吉の小田原北条攻めに参陣した、盛安は25歳という若さでその最中に陣没してしまうという不運な最期を迎えます。
13歳にして当主へ
盛安は永禄9年(1566年)に角館城において戸沢道盛の次男として生まれました。同じ東北の雄・伊達政宗より1年程前の生まれでほぼ同世代と言える生年です。
次男に生まれた盛安でしたが、天正6年(1578年)に兄・盛重が生まれつき病弱だったことから、それに代わる形で13歳にして戸沢氏の当主・角館城主に就くことになりました。
この当時の戸沢氏は先々代の父・道盛から続く有能な配下にも恵まれて領国内の充実が図れていたことから、臣従していた南部氏から脱する方策を企図していきました。
角館支配の確率
盛安は天正10年(1582年)には安東愛季(あんどうちかすえ)の侵攻を受けました。敵の安東勢は兵約3,000、盛安らの戸沢勢は兵約1,200程でしたが、寡兵にも関わらず3日に及んだ野戦で見事な勝利を挙げました。
更に盛安は天正14年(1586年)には阿気野の戦いに挑み、上浦郡沼館城を陥落させて勝利を収めます。加えてこのときの合戦において盛安は、敵将・小清水蔵人の首級を自ら挙げる武勇をみせたと伝えられています。
盛安は、翌天正15年(1583年)には仙北へ侵攻してきた安東愛季との唐松野の戦いにも勝利を収め、淀川城を支配下の置くことに成功し、今の秋田県角館地方を基盤とした戸沢氏の支配地域を凡そ4万4千石まで拡張しました。
小田原北条攻めへの参陣
盛安はこうした勢力圏の維持・拡大と並行して、それに先立つ天正7年(1579年)には、当時中央の支配を進めていた織田信長との外交も行っていました。
信長の歓心を得るために鷹や馬を貢物として送ったことが伝えられています。
信長の死後、その後を引き次いで中央の統一をすすめた秀吉が天正18年(1590年)に小田原の北条氏討伐の兵を挙げると、盛安もこれに参陣するため、わずか9名ほどの配下を引き連れて角館を後にしました。
巷説では日本海を渡る海路で盛安一行の9名は、一路京へと向かったものの、その途上で路銀がそこをついてしまい、山県は酒田の豪商であった加賀屋与助にお金を借りて京を目指したとも伝えられています。
秀吉に見せた忠義
しかし盛安達一行は西に向かい、秀吉の軍勢は東に進んでいたため遠州で行き違ってしまいました。
これに気付いた盛安一行も慌てて東に向かいましたが、生憎の大雨で大井川の水位が上がっていたと言います。
しかしここで盛安は止めようとする家臣らに対し、自ら大井川に飛び込むと気合のみで向こう岸まで泳いで渡り切ったと伝えられています。
そのままの濡れた姿で秀吉との対面を果たした盛安は、その忠義に感心した秀吉から名刀・備前兼光を授けられました。
明治まで続いた大名戸沢氏
その後、盛安は国元の出羽・角館から兵を小田原に向かわせて、豊臣勢の一員に加わりました。
しかし直後に25歳の若さにしてその陣中で急逝しました。
盛安の子・政盛はまだ4歳だったことから弟・光盛が家督を相続し4万4000石の所領は堵されてました。しかしこの光盛もまた後の朝鮮出兵の前に病死し、政盛が跡を継ぐことになりました。
戸沢政盛(とざわまさもり)は徳川家康と石田三成が争った関ヶ原の戦いで東軍に与して家を守ると、出羽新庄藩6万石を与えられます。
その後、戸沢氏は明治まで続く大名となりました。
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