安土桃山時代

板倉勝重 ~内政手腕のみで幕府のNo.2に出世した名奉行

板倉勝重とは

板倉勝重

板倉勝重像(長圓寺蔵)

板倉勝重(いたくらかつしげ)は、徳川家康に仕え、京都所司代として西国地方の大名(特に豊臣家)の動きを家康に伝え、大坂の陣のきっかけとなる「方広寺金銘事件」の暗躍に動いた人物である。※方広寺金銘事件とは家康が豊臣氏滅亡をはかり方広寺の鐘の銘文に難癖をつけた事件。

京都所司代では奉行として様々な名裁きを下し、それが後に冊子となって後世に伝わっている。
三代将軍・徳川家光の乳母・春日局を抜擢したのも板倉勝重だとされている。

戦場での目立った活躍がないにもかかわらず、幕府で老中に次ぐ京都所司代にまで上り詰めた名奉行・板倉勝重について解説する。

出家して僧になっていた

板倉勝重は、天文14年(1545年)に三河国の深溝松平家に仕える板倉好重の次男として、三河国額田郡小美村に生まれる。

幼少期に出家して浄土真宗の僧となっていたが、永禄4年(1561年)に父・好重が戦場で亡くなり、兄も亡くし、家督を継いだ弟・定重も天正9年(1581年)に戦場で亡くなってしまう。

徳川家康の命で当時36歳であった勝重が還俗して武士となり、板倉家を継いで家康に仕えることになった。

内政で出世

勝重は36歳で家督を継いだが、幾ら武家の出身とはいえそれまでは僧侶。そこで家康は勝重の活躍場所を戦場ではなく内政を中心にさせることにした。

勝重は清廉潔白で思慮深い人物だったために家康に気に入られ、天正14年(1586年)家康が浜松から駿府に移ると駿府町奉行を任された。

天正18年(1590年)家康が関東に移封となると、武蔵国新座郡と豊島郡1,000石を給されて関東代官、そして江戸町奉行となった。

江戸町奉行の他に小田原の地奉行も務め、家康が新たな領国経営に着手すると、勝重は江戸の治安を守りながら中山道・東海道の要地を守る役目を担い、家康から抜群の信頼を得る。

慶長6年(1601年)には三河国3郡に6,600石を与えられ、京都町奉行(後の京都所司代)に任命される。

京都所司代は京都の治安維持、朝廷の掌握、大坂城の豊臣家や西国の大名たちの監視にあたる役職で、徳川幕府では老中に次ぐ重職である。

慶長8年(1603年)家康は征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開き、勝重は従五位下・伊賀守に叙任される。

慶長9年(1604年)徳川秀忠お江の間に、待望の男子(後の徳川家光)が誕生。

勝重は乳母を公募しお福(後の春日局)が参加したが、お福の才能を見抜いて乳母に推薦したのは勝重だとされている。

慶長14年(1609年)近江国・山城国に領地を加増されて1万6,600石となり、大名の仲間入りを果たしている。

猪熊事件

イメージ画像 ※葛飾北斎

慶長14年(1609年)公家の猪熊教利(いのくま のりとし)は「天下無双の美男子」と称えられる男前であったが、女癖が悪く人妻や女官にも手を出し、大人数での乱行を行っていたことが後陽成天皇の知るところとなった。

後陽成天皇はそれに関わった全員を死罪に処せと命じた。(※猪熊事件

従来の公家の法には死罪はなかったが、この当時幕府の力は公家にも大きく浸透していた。事件を聞いた家康は京都所司代の勝重に調査を依頼する。

勝重が調査を進めると、思いのほか大人数が関わっていたことが判明。すべてを死罪とすれば大混乱になると判断した。
そこで勝重と家康は綿密に連絡を重ねて、死罪2名・配流10名・恩免2名という処分を決めた。

全員の死罪を望んでいた後陽成天皇だったが手ぬるい幕府の処分に同意するしかなく、この状況に絶望してそれ以降しばしば譲位を口にするようになった。

その後、勝重は何度も後陽成天皇の譲位を諌めている。

一方、幕府は公家統制の必要性を悟り、これが「公家諸法度」「禁中並公家諸法度」の制定につながっていく。

勝重は公家の指導と監視を強化して、幕府の力が朝廷よりも上となる体制の強化に尽力した。

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

板倉勝重

※方広寺の鐘銘

二代将軍に徳川秀忠が就任すると、徳川家と豊臣家との対立が深まっていった。

慶長19年(1614年)の「方広寺鐘銘事件」では、勝重は本多正純金地院崇伝と共に強硬策を主張し暗躍した。この事件をきっかけに大坂冬の陣となり、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡した。

勝重は大坂夏の陣では、古田織部の重臣・木村宗喜が、大坂方と内通して京への放火を計画していた情報を入手し、これを阻止している。

大坂の陣後には「禁中並公家諸法度」が幕府から施行される。※幕府が天皇や公家に対する関係を確立するために定めた法で、公家への統制が一層強まった。

勝重は公家の指導と監視にあたり、西国大名の動静にも目を光らせた。

元和6年(1620年)75歳になった勝重は、長男・重宗に京都所司代の職を譲る。

元和9年(1623年)には従四位下・侍従に叙任。譜代大名で侍従以上の官位を賜っていたのは松平定勝井伊直孝勝重の3人だけであったという。

寛永元年(1624年)に死去、享年79であった。

板倉政要

板倉勝重・重宗親子の裁定や逸話は、後に「板倉政要(いたくらせいよう)」という冊子(判例集)に収められて、名奉行だったことが後世に伝わっている。

この中には後に名奉行と評判になる「大岡越前(大岡忠相)」の功績にされたものも幾つかあると言われ、その一つが有名な「三方一両損」である。それをここで紹介しておく。

京都奉行所に「3両を拾った」という男が現れた。そしてその後に「落としたのは自分だ」と言う男が現れる。
3両を落とした男は「金を落としたのは自分の運命、金を拾った人も運命、だから3両は受け取れない」と言った。
拾った男も「落とし主が見つかったのだから、私が受け取る訳にはいかない」と突っぱねる。
すると勝重は「このご時世に珍しい御仁達だ。気に入った。わしも仲間に入れてくれ」と、勝重は自分の3両を持ち出して合わせて6両を3人で分けようと提案した。
落とした男は3両戻るはずが2両となり1両の損、拾った男は3両もらえるはずが2両となり1両の損、勝重は3両を出して2両戻って1両の損、「これで一件落着」と粋な裁量で皆を納得させた。

これは大岡裁きとされているが、実は勝重の裁きであった。

板倉勝重・重宗親子は奉行として善政を行ったために庶民からの評価が高く、後世に名奉行を渇望した庶民の思いから、この「板倉政要」が出来たとされている。

おわりに

板倉勝重は36歳で僧から武士へ転身し、戦場ではなく優れた内政手腕で徳川家康を助け、柔軟な判断で多くの事件・訴訟を裁定した。

その裁きは、敗訴した者でも納得するほど理にかなっていたことから、「名奉行」と呼ばれた。

内政手腕のみで幕府の要職No.2の京都所司代に上り詰めた勝重は、類まれなる優秀な人物だったことは間違いないだろう。

 

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