三英傑とは
戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とは、天下人へあと一歩のところまで迫った「織田信長」、最初の天下人となった「豊臣秀吉」、秀吉没後に天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開いたもう1人の天下人「徳川家康」の3人である。
三英傑の三人は共に尾張・三河(現在の愛知県)出身という共通点があるが、それぞれタイプは違い様々なエピソードがある。
今回は三人の中でも最も人気が高い戦国のカリスマ、織田信長の逸話と人物像を紹介する。
若い頃の信長
家督を継ぐ前の信長の身なりは、浴衣の袖をはずし半袴、火打ち袋をぶら下げて髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)、朱色の太刀を差し「傾奇者」や「おおうつけ」と言われていたが、実は裏では馬術・弓・鉄砲・兵法の稽古・泳ぎの鍛錬などを行っていたという。
武家の次男・三男などで腕の立つ者を側に置き、「黒母衣衆(くろほろしゅう)」「赤母衣衆(あかほろしゅう)」という精鋭の親衛部隊を作っていた。
彼らの中にはのちに大名になる「前田利家」「佐々成政」「滝川一益」らがいた。
不良ではあるが、武の鍛錬や将来の人材など大事なポイントはしっかりと抑えていた人物であったようだ。
信長の身長や性格、習慣
信長に実際に何度も会った外国人宣教師、ルイス・フロイスの記述が残っている。
政治的忖度の少ない外国人による記述であるので、史料として高く評価されている。(※ただし信長は宣教師を優遇していたのでフロイスは好意的に見ていた側面はある)
信長は尾張の国の三分の二なる殿(信秀)の第二子であった。彼は天下を統治し始めた時には三十七歳くらいであったろう。彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なくはなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義においては厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。 彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貧欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。
酒を飲まず、食を節し、人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
※フロイス日本史第三十二章より引用 松田 毅一 (翻訳), 川崎 桃太 (翻訳)
身長に関してはいくつが説があるが、165〜170cmくらいだったと言われている。当時は日本人も外国人も平均身長は低かったが、外国人目線から中くらいの背丈と記述されているので、やはりそれくらいの身長だったと推測できる。当時の日本人としては高身長だったが華奢だったようだ。
性格はイメージ通り苛烈だが、人情味もある人物だった。睡眠時間は短く早起きだったようである。
酒は飲まず、規則正しい食生活を送っていたようだ。
他のフロイスの記述には「彼は自宅においてきわめて清潔であり」とあり、かなりの綺麗好きでもあったようだ。
運の強さ
佐々成政の家の近くにあるあまが池に「大蛇」が出ると言われ、信長は供の者と大蛇退治に出掛けたが、成政は仮病を理由にそれに参加しなかった。
実は当時の佐々成政には謀反の噂があり、成政は信長が居城に立ち寄った際に家臣と共に信長を討ち取る気であったが、信長はこの時なぜか成政の居城には寄らずにまっすぐ清州城へと帰った。こうして誰も傷つくことなく終わったが、信長の持って生まれた運の強さを表すエピソードである。
他には、鉄砲の名手である杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)に火縄銃で狙撃されたことがあった。20数メートルの距離から2発狙撃されたが命中せず、かすり傷程度で済んでいる。狙撃の名手に至近距離から2発も打たれて命中しなかった信長はかなりの強運であるといえる。
杉谷善住坊は後に捕えられて、鋸挽き(のこぎりびき:生きたまま首から下を土中に埋められ、竹のノコギリで時間をかけて首を切断する)という重く残酷な刑に処されている。
敦盛
TVドラマなどのシーンで信長が舞う姿がよく流れるが、あれは「敦盛」という幸若舞の演目の1つの一節である。
「人間50年 下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
と桶狭間の戦いの前や本能寺の変で自害する前に舞っていたという。
「人の世の50年は天界の時間と比べれば、夢幻のように儚いものだ、生を得た者は必ず滅ぶ」
という意味である。
信長は現実主義者で宗教的な「あの世」は一切信じていなかったと言われているが、「敦盛」を好んでいたことから独自の宗教観は備えていたのかもしれない。
茶の湯に熱心だった
様々な物に感心を寄せた信長だが、特に熱心だったのが「茶の湯」である。
名だたる茶道具を集めようと「名物狩り」を行うほどで、特に足利将軍家由縁の物を好んだという。
入手した名物の茶道具を恩賞として家臣らに分け与え、政治の道具として利用した。
甲斐の攻略で活躍した滝川一益は、恩賞で関東管領の地位と上野一国を加増されたが、それよりも「珠光小茄子(じゅこうこなすび)」という茶器を欲しがったという。
織田家臣団は、名物茶器を使った「茶会」に信長から招待されることを一つのステータスとして頑張った。
ただ、信長の「名物茶器」は本能寺の変で、そのほとんどが焼失してしまったという。
刀剣コレクター
また、信長は無類の刀剣好きで、様々な日本刀をコレクションしていた。
特に備前長船派の始祖である「光忠」の刀を、20振り以上も集めた。
戦利品として召し上げることも多く、今川義元の「義元左文字」を常に差していた時期もあったという。
愛刀は「へし切長谷部」で、鎌倉の名刀・五郎入道政宗の弟子である長谷部国重が作った日本刀を愛用していた。
短刀では「不動行光(ふどうゆきみつ)」を所持していた。酒に酔うと気分よくこの短刀について歌ったと言われている。
ある日、信長は「刻鞘(きざみさや)」の数を言い当てた者にこの刀をやろう」と言い出し、答えを知っていた小姓・森蘭丸は口を閉ざした。
信長は森蘭丸の正直さに感心してこの愛刀を贈ったという。
この愛刀も本能寺の変で焼失したと言われているが、一説には小笠原忠真が拝領したという説もある。
仏教嫌い?
有名な比叡山焼き討ちなど、当時の仏教に対し苛烈なイメージが強い信長であるが、ここでもルイス・フロイスの記述が多く残っている。
フロイス自身が宗教家であったことから宗教関連の記述は特に多い。一部を紹介する。
彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊祟、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。
形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
信長は基本的には現実主義で、当時の日本仏教の妄信的な部分を軽蔑していたようだ。
とはいえ、フロイスや日本人宣教師のロレンソ了斎たちとは何度も哲学的な宗教論議をしたり、仏僧と外国人宣教師を論争させるためにわざわざ場を設けた記述も残っている。
上記のように禅宗には多少理解を示すなど、仏教や宗教自体に興味がないのではなく、占いや迷信、偶像崇拝など良くなさそうな面のみを嫌い、しっかり内容を理解し吟味した上で、使えるところは使うという徹底した合理主義者だったといえよう。
実際にキリスト教を擁護してフロイスたちのために邸宅を作らせたり、当時建築したばかりで柴田勝家や佐久間信盛ら重臣たちですら入ったことのなかった岐阜城に宣教師たちを招待したり、想像以上の支援をしている。
当時の日本の僧侶は、武装して多くの一揆を先導し、大名たちを脅かす一大勢力となっていたため、信長にとってはリスクを負って異国にやってきた外国人宣教師の方がよほど本物の宗教家に映ったのかもしれないし、外国の技術や知識など得になる面も多かった。
「宣教師たちは日本を侵略する為の先兵であり、陰謀である」
として、家臣や仏僧たちから危険視される声は当時からあったが、信長は
「仮に陰謀があっても少人数な上、自分の管理下にある彼らには何もできず、むしろはるか異国から命がけで布教している彼らに比べ小心な考えである」
と一笑したという。
さいごに
織田信長といえば「現実主義者」なイメージが強いが、史料の裏付けもありそれは正しい人物像のようである。
常識や虚言に惑わされず「己の目で本質を正しく見極めようとする精神」こそが、時代を超えた普遍的な信長の魅力なのかもしれない。
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すごくわかりやすかった。