中村一氏とは
中村一氏(なかむらかずうじ)は、豊臣政権の三中老の一人であり、岸和田城主だった頃に雑賀・根来衆から攻められて落城寸前のピンチに陥ると、大蛸(おおだこ)に乗った僧と数千の蛸に救われたという伝説がある武将である。
小田原征伐後、徳川家康が関東に移封になると、秀吉から東海道最大の重要拠点「駿河城」を任せられた。
秀吉からは「家康が大坂へ出兵するのを阻止しろ」との命を受け、それを忠実に守り豊臣政権の三中老の一人に任命された。
秀吉から名城・駿府城を任された武将・中村一氏について解説する。
秀吉に仕える
中村一氏の出自は諸説あり、近江源氏佐々木氏の族・山崎氏の余流、桓武平氏良文流、藤原氏流、橘氏流、甲賀五十三家とする説があるが、正確には不明である。
中村氏の末裔を称する中村忠文さんは、
一氏は近江国甲賀郡の甲賀五十三家の一つ・瀧氏の生まれで、織田信長の家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の募集に応じて秀吉の与力として織田家に仕官し、天正元年(1573年)秀吉が長浜城主になった時に、尾張国中村の中村一政の跡に中村姓を名乗り、近江長浜で200石を拝領した。
としている。
いずれにしても中村氏は一氏の代になって世に名が知られた。
天正5年(1577年)大坂石山本願寺との戦いにおいて武功を挙げ、一躍名を売って秀吉に取り立てられる。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が討たれた後は、山崎の戦いにおいて鉄砲隊を指揮して活躍。
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでも武功を挙げて秀吉から和泉国岸和田城主3万石を拝領。大坂の防衛や来たる紀州攻めに備える重要な役割を任された。
この頃、和泉国は秀吉に服属していなかったため、紀州の雑賀・根来衆や石山本願寺の残党勢力によって各地を支配されており、かなりの緊張状態になっていた。
大蛸の伝説
天正12年(1584年)1月1日、紀州勢(雑賀衆)が岸和田城を襲撃し大坂を狙った攻撃が続いたが、一氏はそれらを撃退した。
同年3月、秀吉が小牧・長久手の戦いに主力部隊と共に出陣すると、その隙をついて雑賀・根来衆などの紀州勢3万が岸和田城に猛攻を開始。
一氏は8,000の兵で、劣勢ながらも何とか岸和田城を守り抜いた。
この時、一氏の居城・岸和田城が落城寸前に追い込まれた時に、海の方から大蛸に乗った大法師があらわれて敵陣の中に突っ込み、縦横無尽に暴れた。
しかし、雑賀衆は多数で大法師を取り囲む。さすがの大法師でも命が危ないとなった時、地鳴りのようなものが起こり、今度は海から数千の蛸があらわれて雑賀衆の大軍に墨を吐き、たちまちのうちに敵を打ち払ったという。
岸和田城の人たちが喜んでいると、蛸と大法師はいつの間にか消え去ってしまった。
その後、一氏の夢にお地蔵様があらわれて「この間の戦いで敵を負かしたのは、この地を守る地蔵である」とおっしゃった。
不思議な夢を見た一氏は城の堀を隅々までさらわせると、何と泥にまみれたお地蔵様が出てきた。
一氏はそれを綺麗に磨いて立派なお寺を建ててそこに安置した。そのお地蔵様は「蛸地蔵」と呼ばれ、岸和田の守り神となった。
このお地蔵様は現在も岸和田の天性寺の地蔵堂に安置されていて、普段は非公開だが、毎年8月23・24日にだけ一般公開されている。
駿府城主となる
天正13年(1585年)秀吉が紀州攻めを開始すると、紀州の一揆勢が岸和田城を攻めた。
一氏は自ら討って出て、大坂から駆け付けた黒田官兵衛らと一揆勢を挟み撃ちにして敵兵800を討ち取った。
秀吉の紀州征伐が終わると一氏は近江国水口岡谷城主となり、6万石を拝領して従五位下式部少輔に叙任された。
この人事は甲賀破儀で甲賀武士を改易した秀吉が、彼らににらみを利かせるために甲賀出身の一氏を起用したという説もある。
一氏は水口の東方にある小山に岡山城を築き、領内の安定に尽力した。
天正14年(1586年)四国征伐に従軍して阿波木津城攻めで活躍。
天正18年(1590年)小田原征伐では、羽柴秀次隊の先鋒を務め、松田康長の山中城攻めに先駆けて攻略するなど目覚ましい武功を挙げる。
小田原征伐後、徳川家康が関東へと移封となると、一氏は家康に備える任として駿府府中14万石を拝領された。
秀吉から「家康を大坂に出兵させるな」と命じられ、家康の動きに目を光らせた。
一氏が入った駿府城は、家康が天正13年(1585年)~天正17年(1589年)にかけて築城し、まだ完成したばかりであった。
文禄4年(1595年)秀吉の駿河直領(蔵入地)の代官に任じられて、駿河一国を任された。
この頃、秀吉に老衰の色が見えるようになり、五大老と五奉行が設けられ、一氏は堀尾吉晴・生駒親正と共に三中老として政事に加わった。
※三中老は五大老と五奉行との意見が合わない時の仲裁役。ただ三中老という制度が実際に存在したのかは疑問の声もある。
家康に味方
慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると、家康と石田三成の対立が深まり、加藤清正や福島正則らの武断派と、三成を中心とする文治派の対立が激化する。
政情が不穏になると、一氏は家康と通じ始めた。
慶長5年(1600年)家康が会津征伐に向かうと、その留守をついて三成ら西軍が挙兵した。
関ヶ原の戦いでは一氏は家康に味方したが、病気になってしまったために、代わって弟・一栄と嫡男・一忠が東軍として出陣した。
合戦前の7月17日に一氏は病死。
一氏の代わりに戦った一忠は、関ヶ原の戦いの武功で伯耆米子17万5,000石の城主となった。
しかし、一忠は慶長14年(1609年)に早世してしまい、中村家は男子がいなかったために断絶となり改易になった。
駿府城から金箔瓦
平成30年、静岡市は「徳川家康が築いた駿府城に豊臣秀吉が配下の武将(中村一氏)に築かせた城跡が見つかった」と報じた
https://this.kiji.is/590467343877096545?c=586273634388706401
現天守台の南東角に重なるように野面積みの石垣(南北約37m・東西約33m)が見つかり、その周辺から約330点もの大量の金箔瓦が出土したのだ。
家康が駿府から江戸に移り、代わりに一氏が駿府城に入ったことで、秀吉の威光を家康の家臣団や領民に誇示するために金箔瓦を用いたのではと考えられている。
ただ、この幻の城は一氏が建てたのか、それとも家康が建てたのかは分かってはいない。
家康は江戸に幕府に開き、将軍の座を嫡男・秀忠に譲ると駿府城に戻って大御所政治を行っている。
おわりに
徳川家康が中村一氏の一族に送った書状が近年公開された。
この書状は中村一氏が病死した直後に送られたもので、内容は「式部少輔(一氏)が申し付けた通り、駿府の支配を疎かにしないように」というものである。
中村一氏は豊臣秀吉の命で徳川家康に備えるために駿府城に入ったが、死ぬ前には「駿府城を家康に返そう」と考えていたのだ。
秀吉のもとで数々の武功を挙げて順調に出世街道を駆け上った一氏だが、関ヶ原の戦いでは家康に味方をして中村家を守った武将であった。
大河ドラマ「真田丸」でロンブーのあつしが確か中村一氏の役をやっていて「大蛸に助けられた」と真田信繁に話したが、信じてもらえなかったシーンがあったが、これを読んでそのシーンを思い出しました。
まさかとは思うが「大蛸伝説は本当だったのかなぁ?
でも神社があるのが真実味を増しますね。
この人、本当は秀吉の部下の中で知られていないけど、スゴイ人だったのよ、ただ、大河も悪い、私も真田丸を見た、この人は大たこに助けられたと言って笑い話にしているが、大坂を紀州勢からたった1人で守ったスゴイ武将なのよ、草の実堂さん記事にしてくれてありがとう、全国的には無名なのに地元は神様扱いですよ、それに光をあててくれたのは草の実堂だけ。
私の家は先祖代々中村一氏の子孫だと言われています。
そしてこのページを見つけてもっと一氏公のことについてしれてよかったです。
私の家は先祖代々中村一氏の子孫だと言われています。
そしてこのページを見つけてもっと一氏公のことについてしれてよかったです。
しかし一氏の子孫だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか。