秀吉を批判した落書き
天正17年(1589年)2月25日、関白・豊臣秀吉が政庁兼邸宅としていた聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)の門の屯所(警備兵の詰所)近くの白壁に、秀吉を批判する落首(らくしゅ・落書き)が書かれるという事件が起きた。
これがいわゆる 聚楽第落首事件(聚楽第落書き事件)である。
落首(落書き)の内容は関白・秀吉の政治を批判するものであったというが、すぐに消されたため、内容に関しての記録ははっきりとは残ってはいない。
現代の歴史愛好家たちの間では豊臣政権崩壊の前兆のような事件とされ、「秀吉の処罰の仕方が尋常ではない。狂っている」とまで言われている。
今回は豊臣政権崩壊の始まりとされている「聚楽第落首(落書き)事件」について調べてみた。
落首とは
落首とは平安時代から江戸時代にかけて流行した表現方法の1つで、公共の場所や人の集まりやすい場所に立て札を立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開することである。
この当時は言論の自由などというものは存在せず、政治や君主に対する批判は極めて危険性が高い行為であったが、匿名ということで読み書きができる者なら誰でもやることはできた。
関白に就任したばかりで飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉への落首(落書き)をすることは、何とも命知らずな政治批判だったと言えよう。
落首(落書き)の内容
一説には下記のような文章が落書きされていたという。
「大仏の くどくもあれや やりかたな くぎかすがいは 子たからめぐむ」
しかしこれは後世の創作である可能性もあり、実際に書かれた落書きについての一次史料は存在していない。
当時、秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩令を出したことが批判されており、京都・東山に大仏殿を建築しようとしていた。
そして数多くの側室を持ちながら長年子供に恵まれず、突然茶々(淀殿)が懐妊したことから、それらをあざ笑うかのような内容であったとされている。
すぐに落首(落書き)が消されたために内容の記録は残ってはいないが、奈良・興福寺の「多聞院日記(たもんいんにっき)」に事件の3日後、2月28日には事件のことが記述されていたことから、広く世間に知れ渡っていたようである。
また、一説にはもう一つの落首(落書き)が下記のように書かれていたという。
「ささ絶えて 茶々生い茂る 内野原 今日は傾城 香をきそいける」
佐々成政が、肥後の国人一揆の責任を取らされて自害させられたことや、茶々(淀殿)の権力がますます強くなり色香ばかりを競っている、など豊臣政権を揶揄した内容となっている。
また、尾張の前野家の「武功夜話(ぶこうやわ)」には他にも数首書かれていたという説もある。
処罰と犯人捜し
秀吉の怒りは想像を絶したという。まずは警備を担当していた番人に怒りをぶつけ、2月25日の夜に警備を担当していた17人の番衆たちの鼻を削ぎ、次の日に耳を切り落として逆さ磔(はりつけ)にして処刑した。
犯人捜しをした結果、浪人・尾藤道休(びとうどうきゅう・尾藤次郎右衛門入道道休)という人物(武士)が容疑者になった。
2月29日、その者が本願寺内に逃げ込んだということで匿っているといるのではないかという疑いで、本願寺の顕如は引き渡しを迫られた。
3月1日、石田三成と増田長盛が大坂・天満の本願寺に派遣された。本願寺は他にも関与したと疑われる浪人たちを匿っており願得寺顕悟という僧侶が匿った中心人物とされた。顕如は尾藤道休と匿った願得寺顕悟の2名を自害させその首を秀吉に差し出した。
これで幕引きかと思われたが、秀吉の怒りは収まらず、3月2日には尾藤道休と願得寺顕悟の家を取り潰し、2人が住んでいた寺内町が焼き討ちにされ、尾藤道休の居宅近くに住む町人らは捕縛されてしまった。
3月3日も関係者の捕縛は続き、3月4日には顕如・本願寺坊官以下、諸侍・町人・家主に至るまで科人を隠匿しない旨の起請文の作成が求められ、血判起請文を秀吉に提出して一応事態は収集された。
3月9日には尾藤道休の妻子を含む、天満の町民63名が犯人隠匿の罪で捕らわれて京都に連行され3人は自害、残る60人は京都の六条河原で磔にされた。その中には7歳にも満たない者、80歳を超えた者など年齢や男女の隔てもなく、本願寺の法師もいれば諸国を往来する商人もおり、有罪や無罪に関係なく処罰されたという。
大坂でも処罰者が50人出ており、合計113人が死罪となった。
本願寺への処分
牢人を匿ったと疑われた本願寺への処分として寺内掟5箇条が出された。
1.勘気の牢人を抱えないこと
2.盗人・悪党は油断なく糾明を遂げること
3.町中に武士奉公人を抱えないこと
4.町中では誰の家来であっても町並に役儀を務めること
5.他所・他郷の町人・百姓はその所の給人・代官に支障がある場合は抱えないこと
この5箇条が3月18日に石田三成と益田長盛の連判で出されて、19日には寺内での検地が施行された。
本願寺はすべてを飲み、天正19年(1591年)に京都へ移転した。
おわりに
他に、この事件の黒幕として斯波義銀と細川昭元が捕縛された。しかしこれは名族でもどうにでもできるぞという秀吉の権力誇示であり、彼ら2人は無実であったのですぐに許された。
落首(落書き)の犯人や匿った者ならともかく関係のない町民が多数殺されたために、秀吉はこの頃から少し狂気があるとされた。
故にこの事件は豊臣政権崩壊の始まりと言われている。
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豊臣がやりすぎ
秀吉やり過ぎじゃあねぇ
秀吉は派手なことで京の人たちに人気があったのに、晩年なのかな?酷すぎるこれなら豊臣政権滅亡するわ。
豊臣がやりすぎ
この頃、既に脳腫瘍に侵されていた、老年性鬱病を患っていた説もありますね。
異常者がトップに立つとどうなるのか、という見本です。