虎退治で名を馳せた戦国の猛将 加藤清正
豊臣秀吉子飼いの武将として、天下統一を最前線で支えた。武勇ばかりでなく知略にも長けていた清正は、肥後で反乱が起きたとき、次のように進言している。
『武力での鎮圧は無理です。平和的に慈悲を持って収めれば万人が服従するでしょう』
この言葉通り、肥後の反乱を収めた清正は一気に肥後の大名まで上り詰めた。
だが、清正が親とまで慕う秀吉が死去すると時代は大きく変わる。
徳川家康の台頭に対し、清正はどのような態度で接したのだろうか。
加藤清正 比類なき働き
天正11年(1583年)4月20日、「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」において、足軽からスタートした羽柴秀吉は、織田家重臣の柴田勝家を破り、織田信長亡き後の天下人に大きく近付いた。
この戦いで相手方の侍大将を討ち取るなど、八面六臂の活躍を見せたのが、加藤清正である。
『無比類働(比類なき働き成り)』と秀吉から褒め称えられ、清正は厚い信頼を勝ち得ていく。
この戦いのあくる年、秀吉は最大のライバル・徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で激突することになるが、勝ちを急いだ秀吉軍は家康軍に隙をつかれてしまう。
秀吉軍はやむなく撤退することになるが、その際に最も危険な最後尾「殿(しんがり)」を負かされたのが清正だった。
そして、清正の奮戦により秀吉軍は撤退に成功、その後も秀吉は四国を平定し、関白にまで就任する。
天正13年(1585年)のことである。
肥後の反乱
しかし、2年後の天正15年(1587年)、九州も平定したはずの秀吉のもとに驚くべき知らせが届く。
肥後の国で地元の有力な豪族たちが秀吉に反旗を翻し、その勢いが瞬く間に広まったのである。対する秀吉はどの武将に任せても、これを鎮圧することが出来ない。
悩む秀吉の前に名乗り出た武将こそ、加藤清正であった。
この時、清正は26歳、知行は3,000石足らず。分不相応な申し出だと他の武将たちが冷笑するなか、清正は慈悲を持って接すれば反乱は易々と収まることを進言した。
この一言で秀吉は、肥後の半分約20万石を清正に任せてみることにした。
肥後に入った清正は、家臣に対して定め書きを発布する。
そこには『目安をもって直訴すべし』、すなわち「理不尽なことがあれば、例え農民でも直接清正に訴えることができる」というものであり、さらには反乱に加勢した農民に対しても、これを咎めないようにした。
こうした清正の姿勢に、武将も農民も次第に心を開いていくようになる。
秀吉死去
清正は、その他にも戦で荒れた土地を回復するため、大規模な治水工事を行うなどして住民の暮らしを潤し、知略によって肥後の統治に成功した。
秀吉の期待に見事に応えたのである。その後も清正たちの活躍により、秀吉は遂に天下統一の夢を果たす。だが、程なくして秀吉の飽くなき野望は海外へ向けられた。
文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ、朝鮮侵略が始まる。
清正も1万の兵を率いて上陸し、現在の中国との国境付近まで進撃するが、この合間を縫って清正は秀吉の健康を気遣い、自ら退治をした虎の肉を秀吉に送っていた。
しかし清正の思いも虚しく、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉はこの世を去る。ここに朝鮮侵略も終わりを告げ、清正も深い悲しみに包まれたのだった。
帰国した清正は、秀吉の遺児・秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いるよう誓う。
だが、秀頼を誰が盛り立ててゆくのか、豊臣政権下の武将たちは二手に分かれた。この2人こそ石田三成と徳川家康の派閥であり、清正は家康を選んだ。
家康は秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続けていたからである。そして、慶長5年(1600年)9月5日、関ヶ原の戦いで清正は東軍として九州で戦い、東軍劣勢の九州で勝利を得たのだった。
家康の本性
関ヶ原の合戦のあと、家康は大坂城に出向き、秀頼に戦勝を報告した。
家康のその姿勢に清正も胸を撫で下ろす。
しかし、清正が安堵したのも束の間、家康は『秀吉を弔う』という名目で盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その経済力を削ぎにかかった。
この状況を見ていた清正は、家康に秀頼への資金援助を申し出る。しかし、家康の答えに清正は耳を疑った。「勧進には及ばず」といって清正の申し出をはねつけたのである。清正の心に家康に対する疑念が広がる中、慶長8年(1603年)2月、遂に家康は征夷大将軍に就任し、その本性を現した。
家康が天下への野心を隠さなくなると、豊臣方はこの状況に危機感を募らせる。
多くの大名が秀頼から離れる中、清正はその忠義を変えることはなかった。なぜなら家康は、秀頼の所領を無断で他の大名に与え、知行を200万石から65万石まで減らしていたのだ。
こうして清正は、『もし大坂城が家康によって落とされるようなことがあれば、秀頼を熊本城へ引かせて戦うまでだ』との決意を固める。
二条城の会見
慶長16年(1611年)3月、遂に家康が動き出した。
10万の大軍勢を率いて京へ上り、大坂の秀頼に二条城まで来るよう求めたのである。秀頼がこの申し出を断れば、必ず戦が起こる。
ここに来て清正は、秀頼を徳川の家臣としてでも豊臣家を守るしかないと腹を括った。清正は大坂城に出向き、京へ向かうよう秀頼に申し出る。反対する秀頼の母・淀殿を必死に説得した清正は、家康を刺激しないためにわずかな供を連れて秀頼と京へ向かった。
清正は、秀頼を守るように傍らに寄り添って会見の場へと向かい、秀頼にもしものことがあれば、家康と刺し違える覚悟だったのだ。
下座に座り、家康の入室を待っていた秀頼に、家康は「共に上座に座ろう」と誘ったが、それは秀頼の服従を試す罠であった。清正は秀頼を下座に座らせたままで家康に拝礼をするように目配せをする。それは、秀頼が家康に従った瞬間であった。
清正は最初から秀頼を下座に座らせ、家康の誘いにも乗らずに無事に会見を乗り切った。清正の機転により、豊臣家存亡の危機は免れたが、会見後は涙ながらに『秀吉様からいただいた大恩、今日お返しできた』と語ったという。
そして、熊本へ帰る船の中で病に倒れた清正は、豊臣家の存続を見守るかのように、慶長16年(1611年)6月24日、この世を去った。享年50。
最後に
清正の死から3年後、清正という重石がなくなった家康は、大坂へ出陣。だが、用心深い家康は、家臣を熊本城に派遣させ、監視に当たらせたという。
秀頼を守るために強固に築かれた熊本城は、その役目を果たせぬまま、家康のものとなったのである。
参考文献 : 『加藤清正〈上〉 (文春文庫) 』
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