織田信長は圧倒的な知名度があり、おそらく歴史に全く興味がない人でも知っているだろう。
しかし、その父親の織田信秀は一般的にはあまり知られていない。
「信秀の葬儀にて信長が抹香をぶちまけた」という逸話がなんとなく知られている程度であろう。
今回は、信秀がどんな人物だったのか、優秀だったのか、宿敵はいたのか、など分かりやすく解説したい。
織田信秀のプロフィール
織田信秀は、低い地位から一気に織田家の勢力を拡大させて「尾張の虎」と呼ばれ、後の信長の飛躍の基盤を作った人物だ。
しかし、輝きを魅せていたのは人生の中頃までで、晩年は斎藤道三や今川家の太原雪斎に敗れ、その勢いは停滞した。
それでも優秀だったのは間違いなく、信長の父親にふさわしい人物だったとも言えるだろう。
織田信秀のプロフィールは以下である。
人名:織田 信秀(おだ のぶひで)
別名:三郎、器用の仁、尾張の虎
官位:従五位下、弾正忠、備後守、三河守、贈従三位
主君:織田達勝→信友
出生:1511年
没年:1552年3月27日
父親:織田信定
母親:含笑院殿(織田良頼の娘)
配偶者:織田達勝の娘
継室:土田御前
側室:織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)など
兄弟:信康、信光、信実、信次、松平信定夫人(松平信定室)、長栄寺殿(牧長義室)、岩村殿(遠山景任室のち秋山虎繁(信友)室?)、秋悦院殿(織田信安室)
子供:信広、信時、信長、信行、信包、長益(有楽)、お市の方(浅井長政継室のち柴田勝家室)、お犬の方(佐治信方室のち細川昭元室)、ほか
主な参戦:安城合戦、小豆坂の戦い、加納口の戦いなど
関わりの深かった人物:織田信長、お市、斎藤道三、今川義元
信長の野望 新生PK能力値:統率86、武力71、知力87、政治90、総合合計値順位2201人中43位
信長の野望 新生PKでの列伝:
尾張の戦国大名。「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、尾張統一を目指して近隣の今川家、斎藤家らと抗争を続けたが、志半ばにして流行病にかかり、急死した。
引用:織田信雄【新生】 | 信長の野望 徹底攻略(https://nobunaga-kouryaku.com/shinsei/database/samurai/555)
飛躍した織田信秀
信秀は、尾張国の織田弾正忠信定の嫡男として産まれた。
尾張国は三管領の斯波氏が守護を務めていたが、その影響力が衰退し始めた時、守護代である織田家が勢力を拡大した。
しかし、当時の織田家は清洲織田氏と岩倉織田氏に分かれて覇権争いをしていたのだ。
今回の話の主役である織田信秀は清洲織田氏だが、この清洲織田氏配下である清洲三奉行の一人という扱いでしかなかった。
つまり、守護代の主家を支える分家の一角でしかなく、高い身分ではなかったのだ。
そんな家柄に産まれた信秀は、父・信定によりその能力を認められ16~17歳の頃には家督を継いでおり、遺憾なくその才を発揮した。
謀略が得意だったようで、那古野城主であった今川氏豊にあえて友好的に接し、歌仲間になってから那古野城に泊まり、そこで仮病で重体を装って自身の兵を呼び寄せて城を乗っ取る、といった奇策を用いたとされている。※『名古屋合戦記』より
経済感覚にも優れ、当時の経済流通拠点を支配下に置いて商業の活性化を図るなどの先見性も持っていた。これも信長にも継承されている。
自らの威勢を示すために公家ともうまく付き合って蹴鞠会を開催したり、上洛して朝廷に献金し、従五位下に叙位され備後守に任官されるなど、政治的バランス感覚も非常に優れていたと言えるだろう。
さらに、当時の戦国大名では考えられない奇策として、居城を次々と移転するという大胆な戦略をとっていたのも注目ポイントだ。
当時の戦国大名は防御に有利な山に城を築き、そこを拠点として動かないのが常識だったが、平野が多い尾張国では防御に優れた城を築きにくかった。そこを逆に利用して城を戦のための拠点ではなく、経済活動の中心地として扱うという革新的なことを行っている。
この居城移転戦略も信長へと引き継がれている。
戦においても1540年の第一次安城合戦では勝利し、1542年には今川義元が相手の第一次小豆坂の戦いでも勝利している。
陰りを見せた晩年の織田信秀
勢いに乗っていた信秀だったが、1544年の加納口の戦いで斎藤道三に大敗する。
それでも信秀は1547年に岡崎城を落として松平広忠を降伏させ、広忠の嫡男・竹千代(後の家康)を人質とした。
しかし、翌年の1548年に太原雪斎が指揮する今川・松平連合軍に第2次小豆坂の戦いで敗北、その翌年の1549年には再度今川・松平連合軍と第三次安城合戦となるが、またしても敗北した。
この時、庶子の織田信弘が今川軍に捕らえられてしまったことで、人質交換として竹千代は今川方に移ったのだった。
この頃、道三の娘・帰蝶(濃姫)が織田家に輿入れし、道三とは同盟関係となったが苦しい状態は続く。
1549年以降、信秀は病に臥せるようになり、指揮官が絶不調の状態で今川方に押され続ける形となる。
1552年3月27日、ついに信秀は末森城で亡くなった。(享年42)
信長にとっては、今川に押さえ込まれた状態での家督相続となったのだった。
最後に
織田信秀は間違いなく優れた戦国大名だったといえるだろう。
高い身分ではなかったにも関わらず、公家相手にも立ち回る政治バランス、優れた経済センスを持ち、戦も弱いわけではなかった。
後の信長に見られた革新性は、父から色濃く受け継がれたものだろう。
参考 : 『言継卿記』『信長公記』『多聞院日記』他
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