安土桃山時代

「秀吉のあだ名はサルではなかった?」 織田信長の光るネーミングセンス

織田信長といえば、日本人なら誰でも知っている戦国武将を代表する人物である。

彼は青年期から常識外れのファッションを好み、常に周囲とは異なる行動を取る革新者であった。
そんな信長には、もうひとつキラリと光る才能があった。

それは、「ネーミングセンス」である。

秀吉のあだ名は「サル」ではなかった?

織田信長の光るネーミングセンス

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain

近年の研究の進展により、歴史的事実が変わりつつあり、教科書や時代小説、ドラマでお馴染みの歴史常識が通用しなくなってきている。
たとえば、鎌倉幕府の樹立は従来の1192年から1185年に改められ、聖徳太子は厩戸皇子に改められた。

かつては信長が秀吉を「サル」と呼んだ逸話が有名であり、大河ドラマなどでしばしば描かれてきた。
しかし、近年では歴史研究者の間で、その信憑性は低いとされている。

というのも、信長が秀吉に「サル」というあだ名を付けたことを示す一次資料は存在せず、秀吉が同僚から「サル」と呼ばれていたという証拠もないからである。

おそらく、イエズス会や朝鮮の記録に「秀吉は猿のようだ」と評する記述や、秀吉が関白に就任した後に「猿のように卑しい秀吉が関白になるとは世も末だ」という意味の狂歌が京都中に貼られていたことから、後世になって創作された話だと考えられる。

では、信長は秀吉のことを一体何と呼んでいたのだろうか。

それは「ハゲネズミ」である。

信長は秀吉の正室・ねねに宛てた手紙の中で、浮気を重ねる秀吉に対し「あのハゲネズミは…」と呆れながらも、ねねに愛想をつかさないようなだめている。

この「ハゲネズミ」という呼び名がこの手紙だけのものか、日常的に使われていたかは不明である。

しかし、手紙で部下の妻をなだめるという行為において、残酷なイメージが強い信長にしては、なんとなく人間味を感じさせるエピソードである。

明智光秀の「キンカン頭」

画像 : 明智光秀 public domain

信長はこの他にも、明智光秀のことを「キンカン頭」と称している。

キンカン頭とは、金柑のように赤く光る禿げた頭を指す言葉だが、明智光秀の肖像画を見る限りでは、他の武将たちと大きな差はないヘアスタイルである。
一説には、光秀の「光」と「秀」の字を掛け合わせると「禿」になることからこのあだ名がついたとされているが、真偽は定かではない。

「ハゲネズミ」にしろ「キンカン頭」にしろ、信長はどうやら人のヘアスタイルをいじってあだ名を付けるのが好きだったようだ。

筆者には、信長自身も似たようなヘアスタイルに見えるが、南蛮文化を好んだ信長は自身のことを「オシャレをわきまえている」と思っていたのだろうか。

いずれにしても、信長はそのネーミングセンスを発揮して、多くの人に突飛な名前を付けている。

その最たるものが、自身の子どもの名前である。

信長の子どもたちの名前

画像 : 織田信長 public domain

ここからは、信長が子どもたちに付けた「なんとも言えない名前」を紹介しよう。

ちなみに戦国武将の名前には、幼名(ようめい、ようみょう)、(あざな)、(いみな)の3種類がある。

幼名は元服前の名前であり、信長の場合は「吉法師(きっぽうし)」であった。

諱は元服後の正式な名前であり、主君や父親から一文字を受け継ぐのが恒例である。
信長の場合、織田家に代々伝わる「信」の字をとって「信長」となった。

字は官位と仮名(けみょう)を使うことが一般的で、信長の場合は「上総介三郎(かずさのすけさぶろう)」であった。仮名は長男なら太郎、次男なら次郎、三男なら三郎、といった具合に、生まれた順番で付けられることが多かった。

つまり、諱と字(仮名)にはある程度の制約があるため、親が子どもに自由に与えられるのは幼名だけなのである。

信長はこの幼名において、驚くべきネーミングセンスを発揮している。

画像 : 織田信忠 public domain

嫡男 織田信忠:奇妙

初めての男子に「奇妙」と名付ける親は、信長をおいて他にいないだろう。

もしかすると、赤ん坊の顔が奇妙だったのか、あるいは出産の神秘を奇妙と感じたのかもしれない。いずれにせよ、生まれたばかりの赤ちゃんは誰でも少し奇妙な顔をしているものだ。

次男 織田信雄:茶筅(ちゃせん)

信長が茶器を集めていたことは広く知られているが、信雄が生まれたとき、茶を点てていたのだろうか。

この名前は、信長の茶道への愛着を反映しているのかもしれない。

三男 織田信孝:勘八

信孝の幼名については「勘八」とも伝わるが、その由来ははっきりしていない。

『織田信長総合辞典』によると信孝は4月生まれとされているが、魚のカンパチの旬は6〜9月であるため、魚が由来ではなさそうだ。

四男 羽柴秀勝:御次(おつぎ)

羽柴秀勝は秀吉の養子となった信長の子息である。

この名前はまるで「ハイ次!」とでも言わんばかりの名前である。

五男 織田勝長:御坊

「御坊」は「僧侶」や「坊や」の意味がある。

由来は定かではないが、「坊や」との意味であれば、かなり安直な命名だ。

六男 織田信秀:大洞

七男 織田信高:小洞

ここへ来て、まるで漫才コンビのような名前である。

「大洞でーす!小洞でーす!二人合わせて、大洞小洞でーす!」と聞こえてきそうだ。

ちなみに彼らの母親は同一人物ではなく、双子でもない。もちろん、漫才もしていない。

八男 織田信吉:酌

酌の由来はハッキリしており、母親の名前がお鍋の方だからである。

「鍋には酌子が添うものなりとて」と織田家雑録に記されている。

九男 織田信貞:人

そろそろ名付けに飽きてきたのだろうか。

このままでは次に生まれる赤ん坊に「赤子」と名付けかねない。

十男 織田信好:長

「赤子」と名付けられずに済んだ信好。

母親である塙も安堵したことだろう。

十一男 織田長次:縁(えん)

十二男 織田信正:於勝丸

これらの名前は比較的良い名前であり、信長がやっと気持ちを込めて名付けたと見受けられる。

以上が、信長の子息に名付けられた幼名である。

戦国時代においても珍しいこの名前の数々は、信長の一風変わったネーミングセンスを象徴している。

ちなみに、筆者のお気に入りネームは「大洞・小洞」だ。

おわりに

「合理主義で天才的な改革者」として知られる織田信長。

彼が子どもたちに付けた名前は、現代で言うところの「キラキラネーム」以上にユニークともいえる。

信長は政治や文化、戦だけではなく、名付けにおいてもその独自性を発揮し、時代の最先端を走っていたのかもしれない。

参考文献 :
戦国時代通説のウソ』日本史の謎検証委員会
戦国武将の解剖図鑑』本郷和人
織田信長総合事典』岡田正人

 

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