大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公でもある黒田官兵衛。
彼は類稀なる頭脳で豊臣秀吉に仕え、秀吉を天下統一に導いた。その実力は、主君の秀吉に恐れられたほどであった。
一方、彼の嫡男・黒田長政は、武勇に優れた武将であった。
徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いにおいては西軍を相手に戦いながら、裏で小早川秀秋を調略し、東軍に引き入れるという重要な役割を果たした。
今回は、この親子二代に仕えた優秀な黒田家の家臣とその活躍を紹介する。
黒田官兵衛・長政の家臣団の系譜
黒田家は、元々播磨の姫路(現・兵庫県)を拠点としていたが、その後、豊前の中津(現・大分県)、筑前の福岡(現・福岡県)へと拠点を移した。
そのたびに家臣団は拡大し、各地での戦功を挙げていった。
黒田家の家臣団は、大譜代衆、古譜代衆、新参衆、一門衆の四つに分類される。
・大譜代衆: 播磨にいた頃から官兵衛に仕えていた家臣たち。
・古譜代衆: 1587年に黒田官兵衛が豊前・中津に移った際から仕え始めた家臣たち。
・新参衆: 1600年以降、筑前・福岡に入ってから仕え始めた家臣たち。
・一門衆: 黒田家の親類である家臣たち。
最も重用されたのは、大譜代衆と一門衆であり、彼らは黒田家の中枢を担った。
大譜代衆による黒田官兵衛の救出劇
1578年、黒田家に悲劇が訪れる。
羽柴秀吉が中国征伐を行い、毛利軍と戦っていた際、有岡城主・荒木村重が織田信長を裏切ったのである。
有岡城は毛利攻めの重要拠点であったため、官兵衛は荒木村重を再び味方に引き入れるべく城内に入ったが、そこで幽閉されてしまった。
この時、信長は「官兵衛も裏切った」と誤解し、嫡男の松寿丸(のちの黒田長政)を殺害しようとした。しかし、竹中半兵衛が機転を利かせ、松寿丸を密かに匿い、信長には「松寿丸は処刑した」と報告した。
官兵衛の家臣たちは、連署した起請文を官兵衛の妻に捧げて、必ず官兵衛を救出すると誓った。
そして幽閉されてから約一年後、有岡城が攻め落とされ、城に侵入した家臣たちは官兵衛を捜索し、見事に救出したのである。
この時、救出を行った官兵衛の家臣たちが、栗山利安(くりやま としやす)を始めとする大譜代衆である。
しかし官兵衛は、この一年以上の幽閉期間のせいで足が不自由になり、回復することはなかった。
「関ヶ原の戦い」で別々の道を歩む黒田親子
関ヶ原の戦いにおいて、黒田家は特異な行動を示した。この頃、官兵衛は隠居して「如水」と名乗っており、家督は長政に譲られていた。
長政は家康に従い、関ヶ原の本戦では西軍と対峙し、東軍に寝返った小早川秀秋の調略において大功を挙げた。家康からも信頼を得ていたという。
一方で、父・官兵衛は九州で行動を開始し、家康から「攻め取った領地を頂く」という許可を得て、その卓越した智謀を駆使して九州の西軍勢力を次々と撃破していった。九州統一後、中国勢を仲間にして関ヶ原の勝者を叩く計画だったという説もある。
大譜代衆の主な家臣は、官兵衛と共に行動していたようである。
黒田二十四騎・黒田八虎という精鋭集団
「黒田二十四騎」とは、黒田家の家臣の中から選りすぐりの精鋭を選び抜いたものである。
さらに、その黒田二十四騎の中から特に優れた者たちを選び出したのが「黒田八虎」だ。
ただし、これらの呼称は享保の時代(1716年~1736年)に成立したもので、官兵衛の時代にはまだ存在していなかった。
黒田二十四騎や黒田八虎に選ばれた精鋭たちの多くは、前述した「大譜代衆」である。彼らは官兵衛の時代からその後の長政の時代に至るまで、長きにわたり黒田家において重要な役割を果たし続けた。
ここでは、黒田八虎を紹介する。
・栗山利安(善助)
栗山利安(くりやま としやす)は、黒田家の家臣の中でも特に厚い信任を受けており、その序列は一位であった。
有岡城で官兵衛を救出した武将の一人であり、1565年から官兵衛の側近として仕えた。
その功績に応じて石高も加増され、朝鮮出兵や会津征伐にも従軍した。
関ヶ原の戦いでは官兵衛と共に行動し、最終的には2万石弱を治めたという。
・母里友信(太兵衛)
母里友信(もり とものぶ)は、常に先鋒を務め、その勇猛さで知られる武将である。
彼もまた、有岡城で官兵衛を救出した一人であり、その功績は黒田家内で高く評価された。
九州征伐でも武功を挙げ、朝鮮出兵では長政に従って参戦した。
生涯で討ち取った首級は76にのぼる。また、福島正則から名槍「日本号」を呑み取った逸話も有名で、福岡市の博多駅には銅像が建てられている。
・井上之房(九郎右衛門)
井上之房(いのうえ ゆきふさ)は、元々は官兵衛の父に仕える小姓であったが、その後、黒田家の中で頭角を現した武将である。
彼もまた、有岡城で官兵衛を救出した一人として知られ、朝鮮出兵では渡海して功績を上げ、帰国後には宇佐神宮の造営に関わるなど、幅広い活動を行った。大坂の陣にも参戦し、最終的には1万3千石を領する大身となった。
・黒田一成
黒田一成(くろだ かずしげ)は、官兵衛の養子だが、元は荒木村重の家臣であった加藤重徳の次男である。
加藤重徳は、有岡城で官兵衛が牢獄に幽閉されていた際に、さまざまな世話をして助けた。その恩に報いるため、官兵衛は重徳の子供である一成を養子として迎え入れた。
一成は、長政の弟のように育てられ、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでは常に長政と共に行動した。
最終的には1万6205石を賜り、三奈木黒田家の初代当主となった。
この家系は代々福岡藩の大老職を歴任し、藩政において重要な役割を担った。
・黒田利高
黒田利高(くろだ としたか)は、官兵衛の実弟(黒田家次男)であり、長政の叔父にあたる。
官兵衛と共に中国攻めから九州征伐まで参戦し、多くの戦功を挙げた。
また、官兵衛の勧めでキリシタンとなったことでも知られている。
官兵衛が隠居した後は、長政に従って後見役を務めた。朝鮮出兵にも参戦している。
・黒田利則
黒田利則(くろだ としのり)は、官兵衛の実弟(黒田家三男)であり、長政の叔父にあたる。
賤ヶ岳の戦いまで羽柴秀吉に従っていたが、その後、秀吉の弟・秀長に仕えた。
九州征伐には秀長軍の一員として参加し、その頃にキリシタンへと改宗した。
官兵衛が豊前を拝領した際には黒田家に戻り、その後、朝鮮出兵にも参加した。
長政が福岡藩主となった際には、1万2000石を賜った。
・黒田直之
黒田直之(くろだ なおゆき)は、官兵衛の実弟(黒田家四男)であり、長政の叔父にあたる。
初めは秀吉に仕えていたが、後に兄の利則と共に秀長に仕えた。
九州征伐の際に黒田家に戻り、再び官兵衛に従うようになった。その後、朝鮮出兵にも参戦し、さらなる戦功を挙げた。
長政が福岡藩主となった際には1万2000石を賜った。
・後藤基次(又兵衛)
後藤基次(ごとう もとつぐ)は、播磨国神東郡山田村で後藤基国の次男として生まれた。
後藤家は播磨守護大名・赤松家の一族であり、基次が生まれた時、父・基国は三木城主・別所長治の家臣であった。
その後、別所長治が織田信長と対立を深めたため、後藤家は降伏し、父・基国は御着城主・小寺政職に仕えた。しかし、基次が8歳の時に父が病死し、伯父・藤岡九兵衛が官兵衛に仕えていたことから、基次は黒田家で養育された。
有岡城での官兵衛救出の際には、その起請文への署名を伯父が拒否したことで黒田家から追放されるが、九州征伐の際に黒田家に復帰し、再びその武勇を発揮する。
関ヶ原の戦いでも目覚ましい武功を挙げ、城を賜ったが、官兵衛の死後、長政との関係が拗れ、最終的には黒田家を出奔した。
その後、後藤基次は大坂の陣で豊臣側の武将として参戦し、「大坂五人衆」の一人に数えられる名将となった。
「後藤又兵衛」という通称でも広く知られている。
おわりに
長政は、官兵衛が死去した後、家臣団の勢力を抑える必要があった。
「黒田八虎」の多くが一万石以上の知行を賜っていたが、長政は知行地の整理を行い、一万石以上の知行を受けた家は、一成の三奈木黒田家のみとなった。
こうして整理された黒田家は、幕末まで福岡の地を治めていくことになる。
参考 : 『歴史道』他
文 / 草の実堂編集部
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