「出世の白餅」という有名な逸話がある。主人公は、戦国武将の藤堂高虎だ。
高虎は、近江出身の戦国武将で築城名人としても知られ、主君を何度も変えたのちに大名まで出世した。
そんな高虎は、元々は農民のような生活をしていた下級武士で、生活は安定していなかった。
しかも190cmを超える大男で、赤子の頃から大喰らいだったという。そんな人物が空腹を我慢できるはずもない。
今回は、無銭飲食をしてしまった高虎と、彼に粋な対応をした餅屋のエピソードをご紹介する。
大喰らいだが貧乏だった藤堂高虎
藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村に生まれた。父は藤堂虎高(とらたか)、母はとらで、次男だった。
一説には名家だったともされるが、高虎が生まれた頃は裕福ではなかったようだ。
父の虎高は一時期、武田家に仕えていたが、その後、武田家を離れ近江に流れ着いたとされる。
高虎は、生まれつき大きな体格で、乳母の乳だけでは足りず、数人の女性から乳をもらい育ったというエピソードもある。
兄を戦で失った後、家督を継いだ高虎は、浅井家に仕えるも殺傷事件を起こして出奔。
その後、浅井家縁の武将に何人か仕えたが、どれも長続きしなかった。
そうして高虎は放浪し(東に向かっていたという説もある)、どんどん困窮していった。
優しい餅屋の対応
ある日、困窮した高虎は、三河国の吉田宿にたどり着いた。
持っていた路銀も底をつき、空腹に苛まれていた高虎の目に、美味しそうな餅屋が映った。
そして、我慢しきれず店先に並ぶ餅に手を伸ばし、次々と口に運んでいった。ついには店の餅を一つ残らず平らげてしまったのである。
満腹感に包まれた高虎は、正直に餅屋の主人に告げた。「申し訳ありませんが、代金を持ち合わせておりません」
そして深く頭を下げ、心から謝罪した。
高虎は当然、怒られるものと思っていたが、予想外にも餅屋の主人の反応は違った。
「自慢の白餅を、これほど見事に召し上がられるとは、餅屋冥利につきます」と、主人は微笑みながら言ったのである。
餅屋の主人、中西与右衛門(または吉田屋彦兵衛、笹井屋彦兵衛とも伝わる)は、高虎の話をじっくりと聞き、その境遇に同情した。
そして、「故郷に戻り、親孝行をしなさい」と優しく諭し、餅代を請求するどころか、なんと近江まで帰るための路銀までも高虎に渡したという。
出世の象徴である「白餅」の旗指物
藤堂高虎の旗指物は、紺地に白い丸が三つ縦に並んでいる。
この白い丸は「白餅」を象徴しており、「三つ丸餅」とも呼ばれる。
あの餅屋の恩を忘れないために、高虎が旗指物に採用したとされている。
また、いつか大名となり「城持ち」となることを夢見た、その願いを象徴するものとして用いられたという説もある。
大名になった高虎の出世払いと感謝の気持ち
江戸時代になった頃、高虎は伊勢・伊賀32万石の大名となっていた。「城持ち」になっていたのである。
そればかりか、「築城名人」としても名を馳せ、広く知られる存在となっていた。
そして餅屋は、まだその地で餅を売っていた。
ある日、藤堂家の参勤交代の行列がその餅屋の前を通りかかった際、行列が突如として立ち止まった。驚いた餅屋の主人、中西与右衛門が顔を上げると、そこに立っていたのは、かつての貧乏武士から大名へと出世を遂げた高虎であった。
高虎は与右衛門に近づき、かつて無銭飲食をした際の礼を丁重に述べ、その後、餅を買い求めて家臣たちに振る舞った。
高虎は恩を忘れておらず、出世払いで恩返しに来たのであった。
それから藤堂家は参勤交代のたびに、その餅屋で餅を買い続けたという。
「出世の白餅」史実と創作の狭間
この逸話は、藤堂家の家老である中川蔵人の日記に「三河吉田宿中西与右衛門方にて餅を喰うは習わし也」と記されている。
しかし、全てが史実というわけでもないようだ。
中西与右衛門の店の屋号は「清洲屋」という。
「清洲屋」は、織田信長に仕えた初代が本能寺の変の後に浪人し、吉田宿で酒丼屋を営んだものとされている。つまり、本能寺の変以前には店は無かったということになる。そして、高虎が放浪していたのは本能寺の変よりも前であることから、矛盾が生じるのだ。
それでも、当時の家老の日記に残されている以上、全てが創作というわけでもないだろう。
日記には「高山様(高虎)が召し上がられた頃より連綿」とも記されており、史実と創作が交錯するところに、この話の魅力があるのかもしれない。
おわりに
この「出世の白餅」の逸話は、その後、講談や浪曲になった。戦前には映画化もされたという。
現在でも「出世の白餅」にちなんだ餅を売る店がいくつかある。
有名なのは笹井屋の「なが餅」で、1550年創業の老舗である。高虎が1556年生まれなので、高虎が食べた餅と同じ味の可能性もある。
この逸話は長く人々に愛され、伝わってきた。
何年経っても恩を忘れず、恩返しをする律儀なところが、高虎を大名まで出世させた要因だったのかもしれない。
参考:『藤堂高虎公と遺訓二百ヶ条』『戦国人物伝 藤堂高虎』『歴史街道2017年7月号』
文 / 草の実堂編集部
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