豊臣兄弟!

足利義昭襲撃事件「本圀寺の変」はなぜ起きた?わかりやすく解説 ※豊臣兄弟!

大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しんでいますか?

第11回放送は「本圀寺(ほんこくじ)の変」。本能寺の変なら知っているけど、本圀寺って?という視聴者も少なくないのではないでしょうか。

というわけで、今回は本圀寺の変について、わかりやすく紹介したいと思います。

本圀寺の変をわかりやすくまとめ

画像 : 落合芳幾「太平記英勇傳 岩成主税助左道」public domain

いつ:永禄12年(1569年)1月5日〜6日

どこで:本圀寺(京都市山科区)で

だれが:三好三人衆らが

だれを:足利義昭らを

どうした:襲撃したが

どうなった:撃退された

わかりやすくまとめると、本圀寺の変とはこういう事件でした。もう少し詳しく知りたい方に向けて、事の経緯を紹介していきます。

信長&久秀の不在を狙った犯行

画像 : 三好三人衆の逆襲(イメージ)

織田信長(小栗旬)は永禄11年(1568年)9月、足利義昭(尾上右近)を奉じて上洛しました。

道中を阻む六角義賢(ろっかく よしかた。六角承禎)や三好三人衆(岩成友通・三好宗渭・三好長逸)を撃破し、京都を制圧した信長は義昭を将軍位に就けます。

しかしどういうわけか、信長は1ヶ月もせぬ内に岐阜へ帰ってしまいます。
その理由は大軍を維持するだけの兵糧がなかったためなど諸説ありますが、間もなく松永久秀(竹中直人)も信長に挨拶するため所領の大和国を離れました。

信長と久秀が京都から遠ざかったことで、義昭の身辺は手薄になります。三好三人衆はそこを狙って挙兵したのでした。

そもそも三好三人衆は兵力を温存するため、信長とほとんど戦っていません。

あっさり京都を明け渡された信長が大軍を持て余し、一時帰国するに違いない。その隙を狙って義昭を……そこまで読んでいたのでしょうか。

かくして永禄11年(1568年)年末に三好三人衆は挙兵。明けて永禄12年(1569年)1月5日に義昭のいる本圀寺へ攻め寄せたのでした。

死に物狂いで三好三人衆を撃退

画像 : 落合芳幾「太平記英勇傳 和田伊賀守惟政」public domain

さぁ大変です。義昭の周りにはわずかな近臣や、信長が残した家臣たちしかいません。

本圀寺に立て篭もり、攻め寄せる三好三人衆の大軍を死に物狂いで迎え撃ちました。

『上杉家文書』や『吉川家文書』によると、義昭は自ら馬を駆って将兵を指揮し、時には敵に斬り込んでことごとく討ち果たしたと言われます。

とかく「信長の傀儡」「神輿は軽くて…」とイメージされがちな義昭ですが、実は武将としてかなり有能だったようです。

この経験が義昭に自信を持たせ、信長の傀儡に甘んじない野心をもたらしたのかも知れません。

多勢に無勢でも諦めることなく、義昭たちは夜通し奮戦。
明けて1月6日になると、三好義継はじめ細川藤孝や和田惟政、荒木村重らの援軍が駆けつけました。

よかった、これで助かった……本圀寺の内外から三好三人衆を挟撃し、何とか撃退に成功したのです。

三好三人衆が退却したのは、純粋に敗れたからとも、兵力を温存するためだったとも言われます。

戦闘に遅れても名声を高めた信長

画像 : 織田信長 public domain

かくして本圀寺の変は終わりを告げ、義昭は生き延びられたのでした。

もしここで義昭が討ち死にでもしていたら、その庇護者たる信長の権威は失墜、天下一統どころか天下布武さえ否定されたことでしょう。

また後継者が確保されていない状況下では、室町幕府の存続すら危うかったかも知れません。

急報に接した信長が本圀寺へ駆けつけたのは、変の終結から4日が過ぎた1月10日。雪の降り積もる中、近臣十数騎ばかりを連れて3日の道のりを2日で走破したそうです。

松永久秀も同日に到着しており、信長ともども義昭の無事に安堵したことでしょう。

戦闘には間に合わなかったものの、京都の公家たちは信長の忠義を賞賛し、大いに名声を高めました。

いざとなったら、信長がすぐに駆けつけてくれる……彼らも京都の守護者として、尾張の田舎侍を認めてくれたのでしょうか。

京都に到着した信長は、さっそく三好三人衆の館を打ち壊し、彼らに助力した堺の町衆らを糾弾したと言います。

深まる両雄の溝

画像:足利義昭像(『古画類聚』所収)public domain

さて、義昭が無事と知った各地の諸大名は、信長につくべしとばかり続々と上洛。将兵の数は実に八万騎にも達しました。

実に心強い限りですが、果たして義昭の心中はいかばかりだったでしょうか。

殿中御掟の制定や二条御所の造営、九州北部の大友氏と中国地方の毛利氏に対する三好追討命令など、信長は天下人然とした振る舞いが目立つようになりました。

あくまで大義名分は自分であるとは言え、いざ有事になれば彼らを指揮するのは信長となります。

何より信長が「将軍をお守りするため」としてあれこれ指図・束縛するようになったのも気に入りません。

かくして義昭は次第に信長と対立、ついには信長包囲網の号令に至ります。

終わりに

今回は本圀寺の変について、わかりやすく紹介してきました。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、恐らく小一郎(仲野太賀)や藤吉郎秀吉(池松壮亮)らも本圀寺に立て籠もって戦うのでしょう。

絶体絶命の窮地を豊臣兄弟がどう斬り抜けるのか、今後の展開が楽しみですね!

※参考文献:
・天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社、2021年10月
・福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年6月
・山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』ミネルヴァ書房、2019年12月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

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