明治時代、日本から遠く離れたヨーロッパの地で力強く生き抜いた女性がいた。
彼女の名は、青山みつ。
みつは、オーストリア・ハンガリー帝国の代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚し、夫の祖国である欧州へ渡った。しかし、そこには早すぎる夫の死、戦争、偏見など、多くの困難が待ち受けていた。
それでも彼女は困難を乗り越え「ウィーン社交界の花形」「パン・ヨーロッパの母」と称されるまでになった。
本稿では、黒い瞳の伯爵夫人・クーデンホーフ光子の生涯を紐解いていきたい。
骨董店の娘から伯爵夫人へ
1874年(明治7年)7月、みつは東京牛込で油屋兼骨董店を営む、青山喜八の三女として生まれた。
幼少期から家業を手伝う一方、後に東京・芝の高級料亭「紅葉館」で女中奉公をし、行儀作法や三味線、踊りといった技能を習得した。
1892年(明治25年)3月、紅葉館を退職して実家に戻っていたみつは、当時オーストリア・ハンガリー帝国の代理公使として日本に赴任していたハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵の公使館で、住み込みの女中として働くことになった。
牛込の凍った道で落馬したクーデンホーフ伯爵を、みつが介抱したことがきっかけで、2人は惹かれ合うようになったという。
この話の真偽は明らかではないが、いずれにせよ、2人は急速に親密な関係を築いていった。
みつの父親やクーデンホーフ家は、この結婚に強く反対した。
しかし伯爵は、みつの父に大金を渡し、承諾を得ることで結婚を実現させた。
1893年(明治26年)には長男ハンス(光太郎)、翌年には次男リヒャルト(栄次郎)が誕生。
そして1896年(明治29年)1月、一家は伯爵家の領地であるボヘミア(現チェコ共和国)のロンスペルク(現ポベジョビツェ)へ移住した。
早すぎる夫の死
ロンスペルク城での新生活を始めたみつは、異国の文化に馴染むため、家庭教師を雇い、ヨーロッパの一般教養や言語、歴史、習慣を毎日必死に学んだ。
また、子供たちを立派なヨーロッパの貴族として育てるため、日本語を話さないように努めた。
夫のハインリッヒ伯爵はそんなみつを深く愛し、みつも夫を心から尊敬していた。夫妻の間にはさらに5人の子供が生まれ、みつは計7人の子供を抱え、子育てに励む日々を送った。
しかし、末っ子を出産した後、みつは結核を患い、チロル地方で療養生活を送ることになった。
異国での孤独と極度のホームシックに苦しんだ彼女だったが、日本を離れる際に皇后陛下(のちの昭憲皇太后)からかけられた「どんな時でも日本人の誇りを忘れないでください」という言葉を支えに耐え抜いたという。
病状はしばらくして快復したものの、その後、彼女の人生に最大の転機が訪れる。
1906年(明治39年)5月、夫のハインリッヒ伯爵が、心臓発作により急逝してしまったのである。
このとき、伯爵は46歳、みつはわずか31歳だった。
夫の遺言には「長男がロンスペルク城の後継者となり、みつが全財産の相続人であり、子供たちの後見人になる」という旨が記されていた。しかし、クーデンホーフ家の親族は、みつが相続人として不適格であると主張し、訴訟を起こした。
みつは夫の遺言を守るために決意を固め、弁護士の助けを得ながら裁判に挑んだ。自ら法廷に立ち、訴訟を戦い抜いた彼女は、ついに勝訴を勝ち取ったのである。
この勝利をきっかけに、みつはそれまでの穏やかで忍耐強い女性から、子供たちですら恐れるほどの気丈な女性へと変貌したという。
そしてこの頃から、彼女は「光子」と名乗るようになった。
二男の勘当と戦争による多難な日々
1908年(明治41年)、光子は子供たちに最高の教育を受けさせるため、ウィーンへ移住した。
当時の彼女は若々しく優美で、そんな光子の存在はウィーンの社交界で注目を集め、「ウィーン社交界の花形」と称された。
彼女は息子たちを連れて社交界に頻繁に顔を出し、その優雅な立ち居振る舞いは多くの人々を魅了したという。
しかし、1913年(大正2年)、大学生だった二男リヒャルトが、10歳以上も年上で前夫との間に子供のいる女優イダ・ローランと恋に落ちた。
親の許しを得ることなく結婚に踏み切ったリヒャルトは、光子に財産分与を要求してきたのだ。
女優のイダは、その財産で劇場を手に入れるつもりだったとされ、それを知った光子は激怒。
結果としてリヒャルトを勘当し、家から追い出す決断を下したのである。
その後、第一次世界大戦が勃発すると、光子はロンスペルクから約6キロ離れた山中のシュトッカウにある別荘へ疎開した。
この館は一家が夏を過ごすための別荘だったが、戦争中は避難先となった。
長男と三男は兵士として従軍し、光子は娘たちとともに赤十字社で奉仕活動を行った。また、私財を投じて負傷兵のための野戦病院を設置し、支援に尽力した。
1918年(大正7年)、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が敗北し崩壊すると、ボヘミアはチェコ領となる。
この影響でシュトッカウの館は、新政府に引き渡さなければならなくなった。
またこの頃、厳格な母親であった光子に子供たちが反発し、次々と家を出て行ってしまう。
光子のもとに残ったのは、二女オルガだけであった。
館を手放した光子は、オルガとともにウィーン郊外の山荘へ移り住み、静かな暮らしを始めることとなる。
二男の活躍と『パン・ヨーロッパの母』としての称号
第一次世界大戦後、荒廃したヨーロッパの復興を目指し、「欧州諸国は一つの連邦国家としてまとまるべきだ」と唱える思想家が現れた。
その人物こそ、光子と絶縁状態にあった二男リヒャルトであった。
1923年(大正12年)、リヒャルトは欧州統合の理念を説いた著書『パン・ヨーロッパ』を発表し、のちにEUの礎となる「パン・ヨーロッパ運動」を提唱した。
光子は息子のこの大きな活躍を知り、喜びに胸を熱くした。その後、彼女は「パン・ヨーロッパの母」と称されるようになり、リヒャルトとの関係にも一時的な和解の兆しが見られたという。
しかし、1925年(大正14年)、光子は脳卒中で倒れ、右半身が不自由となってしまう。
その後は次女オルガの献身的な介護を受けながら、静かな暮らしを送ることになる。
光子は大使館を通じて日本の新聞を取り寄せたり、日本から訪れる人々と語らうことで祖国への想いを深め続けた。
また、左手を使って「最後まで長く献身してくれたオルガに、私は全財産を残したい」と書き記した遺書をしたためた。
1941年(昭和16年)8月、光子は67歳で静かにその生涯を閉じた。
彼女の死後、葬儀は近隣住民の手で行われ、その穏やかな晩年を知る人々に見送られたという。
強く生き抜いた伯爵夫人
光子は、生前「いつも仮面舞踏会に出ているような気がします」と語っていたという。
21歳でヨーロッパに渡り、伯爵夫人としての品位を保ち続けた彼女は、伯爵夫人という「仮面」をかぶり続けることで異国の地での試練を乗り越えてきたのだろう。
しかし、その仮面の下には、7人の子供を守り育て、文化や国境の壁を超えて強く歩み続けた、一人の日本人女性としての不屈の精神があった。
参考 :
中江克己「明治・大正を生きた女性」第三文明社 2015
南川三治郎「クーデンホーフ光子 黒い瞳の伯爵夫人」河出書房新社 1997
産経新聞「日本人の足跡」取材班「日本人の足跡2 世紀を超えた「絆」求めて」産経新聞ニュースサービス 2002
文 / 草の実堂編集部
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