明治時代、日本人女性で初めて医術開業試験に合格した女性がいた。
彼女の名は荻野吟子(おぎの ぎんこ)。
吟子は武蔵国の名主の家に生まれ、何不自由のない少女時代を過ごした。しかし、17歳で結婚した夫から淋病をうつされ、病に苦しみ、子を持つことも叶わずに離婚を余儀なくされる。
失意の中、病を治すために上京し、大学東校の附属病院に入院する。
しかし、そこには女性医師の姿はなく、診察にあたるのはすべて男性医師だった。
肌を見せることすら憚られる時代に、下半身を晒して治療を受ける屈辱は、言葉にできないほどの苦痛だった。
「女性の医師がいれば、こんな思いをしなくて済むのに…」
その思いが、彼女の人生を大きく変えることとなる。
今回は、数々の困難を乗り越えて医師となり、さらには女性の社会的地位向上にも尽力した荻野吟子の生涯をたどる。
名主の家に生まれ、17歳で結婚するも病に苦しむ
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画像 : 荻野吟子 public domain
嘉永4年(1851年)3月、荻野吟子(おぎの ぎんこ)は、武蔵国幡羅郡俵瀬村(現・埼玉県熊谷市俵瀬)の名主・荻野綾三郎の五女として生まれた。
荻野家は代々苗字帯刀を許された家柄で、地域でも有力な家の一つであった。
幼少期から聡明であった吟子は、儒学者・寺門静軒の『両宜塾』に通い、その後、寺門の門人である松本万年から漢学を学んだ。
やがて、聡明で美しい女性として評判となった吟子のもとに、武蔵国北埼玉郡上川上村(現・熊谷市上川上)の名主の長男・稲村貫一郎との縁談が持ち上がった。
家柄も釣り合いが取れており、両家はこの縁談を承諾。慶応4年(1868年)、17歳の吟子は貫一郎と結婚した。
しかし、結婚から間もなくして吟子の体に異変が生じる。高熱と下腹部の痛みに苦しむようになり、ついには夫から感染した淋病であることが判明した。
当時、この病は適切な治療が難しく、吟子の体にも深刻な影響を及ぼした。結局、病に苦しみながらも、吟子は結婚生活を続けることができず、明治3年(1870年)、夫と離婚することとなった。
当時の社会では、たとえ病の原因が夫にあったとしても、子を産めなかった女性は「妻としての役目を果たせなかった」とみなされる風潮があった。吟子もまた、この離婚によって自らの将来を閉ざされたように感じたに違いない。
しかし、この苦難が、後に彼女が医師を志す契機となるのであった。
入院中の屈辱的な体験を経て女医を志す
離婚後、荻野吟子は病気の治療を受けるため上京し、大学東校(現在の東京大学医学部の前身)の附属病院に入院した。
当時の医療機関には女性医師はおらず、診察や治療はすべて男性医師が担当していた。吟子も例外ではなく、治療の一環として男性医師による局部の洗浄を受けることとなった。
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画像 : 診察を受ける荻野吟子 イメージ 草の実堂作成
当時の社会では、女性が男性に肌を見せることすらはばかられる風潮があった。そんな中で男性医師に診察されることは、吟子にとって耐えがたい屈辱であった。
このような羞恥心から、当時は病気の治療を受けることを避ける女性も少なくなかったとされる。
吟子は、この経験を通じて「女性医師がいれば、同じように苦しむ女性たちが救われるのではないか」と強く思うようになった。そして、自らが医師となり、女性が安心して診察を受けられる環境を作ることを決意する。
退院後、吟子は周囲に「医師になりたい」という意志を伝えた。しかし、当時の社会では女性が医師になるという考えは受け入れられず、家族からは「無謀だ」「一家の恥だ」と強く反対された。
それでも、松本万年をはじめとする支援者たちは「結婚だけが女性の人生ではない。時代は変わりつつある」と吟子を励まし、彼女の決意を支えた。
医師への道を切り拓く
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画像 : 井上頼圀 public domain
吟子は、医学を学ぶために明治6年(1873年)に上京し、漢方医であり国学者でもあった井上頼圀(よりくに)に師事した。
井上のもとで学ぶうちに、吟子の聡明さと美しさに惹かれた井上は彼女に求婚する。しかし、医師になるという強い決意を持っていた吟子はこの申し出を断り、井上のもとを去った。
明治8年(1875年)、吟子は東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の第1期生として入学する。寄宿舎での生活の中、彼女は寝る間を惜しんで学問に励み、明治12年(1879年)、首席で卒業した。
その後、大学東校の総長の紹介を受け、医学校「好寿院」への入学が特別に許可される。
しかし、医学の道を歩むうえで、吟子はさまざまな困難に直面した。
好寿院において、彼女を除くすべての学生が男性であったため、「女の来る場所ではない」と男子学生から嫌がらせを受けることもあった。そこで彼女は目立たないようにと袴を着用し、高下駄を履いて通学したという。
また、学費を賄うために家庭教師の仕事をしながら学業に励み、3年間の課程を優秀な成績で修了した。
しかし、次なる壁が待ち構えていた。医術開業試験(現在の医師国家試験)を受けるために願書を提出したが、「女性の前例がない」という理由で東京府により却下されてしまったのである。
その後も埼玉県、さらには内務省へと請願を続けたものの、受験の許可は下りなかった。
困り果てた吟子は、家庭教師をしていた子供の父であり、実業家の高島嘉右衛門(かえもん)に相談する。
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画像 : 高島嘉右衛門 public domain
高島は「日本の歴史の中に、女性医師の前例がないのか調べてみよう」と提案し、吟子の元師である井上頼圀の協力を得て、日本の古代法典『令義解』の中に女医の存在が記されていることを発見した。
この記録を根拠に再び請願を行い、ついに明治17年(1884年)9月、前期試験の受験が認められたのだ。
試験には他の女性3名も挑んだが、合格を果たしたのは吟子ただ一人だった。続く明治18年(1885年)3月、後期試験にも合格し、日本で初めて公許を受けた女性医師となった。
この快挙は新聞で大きく取り上げられ、「女医第一号」として世間の注目を浴びた。
同年5月、34歳となった吟子は、本郷湯島(現・文京区湯島)に産婦人科の医院を開業。「女性医師による診察が受けられる」と評判となり、多くの女性患者が訪れるようになった。
さらに、貧しい患者には薬代を負担せず診療を行うなど、慈善的な医療活動にも尽力した。
その後、診療所が手狭になったため、下谷黒門町(現・台東区上野)へと移転し、より多くの患者を受け入れる体制を整えた。
こうして、女性だからという理由で数々の障壁に直面しながらも、荻野吟子は自らの信念を貫き、日本の女性医師の先駆者として歩み続けたのであった。
信仰に導かれた結婚と苦難の末の晩年
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画像 : キリスト教伝道者の海老名弾正 public domain
明治17年(1884年)、吟子はキリスト教の教えに触れ、その中で説かれる女性の地位向上や男女平等の理念に共感し、キリスト教伝道者・海老名弾正の勧めで洗礼を受ける。
女医としての活動にとどまらず、女性の社会的地位向上を目指す運動にも積極的に関わるようになった。
そんな吟子は39歳のとき、16歳年下の同志社大学の学生で敬虔なキリスト教徒である志方之善(しかた ゆきよし)と出会う。同じ信仰を持つ者として互いに惹かれ合い、やがて愛情を育んでいった。
しかし、年齢差が大きかったこともあり、二人の結婚には周囲から反対の声が上がった。それでも吟子と志方は信念を貫き、明治23年(1890年)、結婚に踏み切った。
志方には「キリスト教徒による理想郷を北海道に築く」という壮大な夢があった。
吟子もその志に共感し、結婚後まもなく志方は仲間たちとともに北海道へ渡る。
明治29年(1896年)、吟子も東京の医院を閉じ、夫とともに北海道での活動に加わることを決意。翌明治30年(1897年)、生活のために瀬棚(現・せたな町)に医院を開業した。
しかし、当時の北海道は開拓途上であり、医療を受ける習慣のない人々も多く、診療所の経営は軌道に乗らなかった。一方、志方の理想郷建設も予想以上に困難を極め、計画通りには進まなかった。
それでも吟子は、婦人会を結成し、地域の女性たちの支援に努めるほか、志方とともにキリスト教の布教活動に尽力した。
そして明治36年(1903年)、志方は収入を得るために国後へ渡り、マンガン鉱の採掘に挑戦するが、失敗に終わる。その後、彼は牧師の資格を取得するために京都の同志社大学へ復学し、無事卒業した後、北海道浦河教会へ赴任した。
明治38年(1905年)、志方は再び瀬棚に戻り、開拓事業を進めようとするが、その矢先に病に倒れ、帰らぬ人となる。
吟子はその後も瀬棚にとどまり、地域医療に貢献し続けたが、次第に体調を崩すようになった。
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画像 : 荻野吟子 public domain
明治41年(1908年)、吟子はついに瀬棚を離れ、東京の本所新小梅町(現・墨田区向島)で細々と医院を営むこととなる。
その頃には東京女医学校(現・東京女子医科大学)も設立され、吟子に続く女性医師たちが活躍する時代が訪れていた。
そして大正2年(1913年)6月、吟子は62歳でこの世を去った。
彼女が女医第一号となった際、世間では「女性は妊娠・出産するから医師には向かない」「女医は男医の代理として診察をするべきだ」といった否定的な意見も多くあった。
しかし、吟子は「男性の医師にも病弱な者はいる。なぜ男性は良くて女性は駄目なのか」と反論し、社会の偏見に抗い続けた。
多くの困難に直面しながらも、自らの意志を貫き、女性が医療の道を歩むための礎を築いた彼女の生涯は、日本の医学史において大きな意味を持つものであった。
参考 :
加藤純子「荻野吟子 日本で初めての女性医師」伝記を読もう7 あかね書房
小杉みのり「時代をきりひらいた日本の女たち」岩崎書店
文 / 草の実堂編集部
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