
画像:最後まで新政府軍と戦ったジュール・ブリュネ public domain
2003年に公開された映画『ラストサムライ』は、幕末期の日本を舞台として、近代化を進める新政府とサムライたちとの戦いを描いています。
トム・クルーズ演じるアメリカ人将校ネイサン・オルグレンは、新政府軍の育成のために来日。
しかし、サムライたちの生き様に心を打たれたオルグレンは、やがてサムライとして新政府軍に戦いを挑むことになりました。
この物語には実在のモデルがいます。フランス人軍事顧問・ジュール・ブリュネです。
彼は江戸幕府の軍制改革のため来日し、伝習隊(でんしゅうたい)と呼ばれる西洋式軍隊の訓練・指導にあたりました。
そして幕府が崩壊したとき、ブリュネは母国フランスでの地位を捨て、日本人の弟子たちと共に最後まで戦う道を選んだのです。
フランス軍事顧問団の来日と「伝習隊」の育成

画像:伝習隊のリーダー・大鳥圭介 public domain
江戸幕府は19世紀半ば、開国と共に欧米列強との関係構築を迫られました。
なかでもフランスとは親密な関係を築き、軍制や法制の近代化にフランス方式を多く取り入れています。
1866年、幕府は第二次長州征伐で敗北すると、フランスからの借款や軍事顧問団の派遣を受けて、軍政改革に乗り出しました。
その一環として幕府は、フランスからシャノワーヌ大尉ら15人の軍事顧問団を招聘します。
そのメンバーに、ジュール・ブリュネがいました。
1867年に来日したブリュネは、伝習隊の隊長であった大鳥圭介らと共に、西洋式軍隊の訓練を担当しました。
彼らは横浜近郊の訓練場で、伝習隊を1年以上かけて訓練します。
当時からすると伝習隊は、日本最大規模の西洋式軍事組織の一つでした。
ブリュネは伝習隊に厳しい訓練を課し、幕府軍の中でも精鋭とみなされる部隊へと鍛え上げました。
伝習隊員たちは、異国の教官に深い信頼を寄せるようになります。
ブリュネもまた、日本人の弟子たちの真摯な姿勢に心を動かされていきました。
戊辰戦争の勃発と幕府の崩壊

画像 : 戊辰戦争 戦線の変遷 wiki c Hoodinski
1868年1月、幕府軍と新政府軍のあいだで戊辰戦争が始まり、京都の鳥羽・伏見で両軍が激突しました。
ブリュネは伝習隊の出動を急ぎましたが、移動が間に合わず、伝習隊は鳥羽・伏見の戦いに加わることができませんでした。
幕府軍はそのまま大敗を喫することになります。
ブリュネは大鳥圭介や榎本武揚(えのもと たけあき)と共に、最後まで抗戦することを主張しました。
しかし徳川慶喜は、新政府軍に対抗することを止めて、謹慎に入ってしまいます。
こうして江戸城は無血開城されることになりました。
一方で榎本は、慶喜の恭順に強く反発し、海軍力を温存したうえで情勢を立て直す必要があると考え、開陽丸などの軍艦を率いて江戸湾を脱出。
榎本が合流した仙台や会津の旧幕府諸藩は、新政府軍の進軍によって次々と陥落していき、榎本が最終的な拠点として選んだのは北海道でした。
江戸幕府の崩壊を受けて、幕府に雇われていたブリュネら軍事顧問団は、フランス本国から帰国するよう命じられます。
残念ながら任務は終わったのです。
しかしブリュネは、アンドレ・カズヌーヴら数名の同僚と共に、最後まで新政府軍と戦う決意を固めました。
母国を捨てた決断と函館政権への合流

画像:函館政権発足時(1869年)の集合写真。前列左から2番目がブリュネ public domain
フランス当局の監視を逃れたブリュネたちは、江戸を脱出し、榎本武揚が率いる旧幕府艦隊への合流を目指します。
これは、祖国フランスでの地位を捨てる決断でした。
このときフランス軍籍を離脱する旨の書簡(辞表)を、ブリュネは上司に提出しています。
辞表には日本人の弟子たちへの熱い思いが綴られていました。
上司であったシャノワーヌはブリュネの脱出を把握していましたが、彼の気持ちを尊重し、黙認しています。
ブリュネは榎本武揚が率いる旧幕府艦隊と仙台(松島湾)で合流し、共に蝦夷地(現在の北海道)へ向かいました。
蝦夷地に到着した榎本らは、北海道の箱館を拠点として、箱館奉行所や松前藩などの支配下にあった土地を占領していきました。
1868年12月15日、箱館で選挙が行われ、榎本が初代総裁に選ばれます。
函館政権の誕生でした。
この政権は「蝦夷共和国」とも呼ばれ、榎本はオランダ留学で学んだ国際法の知識を生かし、共和国的な体制や法律を意識した政体づくりを試みています。
函館政権には、新選組の土方歳三、伝習隊の大鳥圭介なども参加していました。
ブリュネは陸軍奉行並である大鳥圭介を補佐し、各陣地の編成や戦術面の計画など軍制全般に深く関わりました。
しかし、新政府軍の圧倒的な物量と兵力を前に、戦局は悪化の一途をたどります。
敗戦が濃厚となった際、榎本はこれ以上の犠牲を避けるため、ブリュネたちに脱出を勧めました。
このとき彼らは函館を離れ、フランスへの帰路につくこととなります。
敗北、帰国、そして名誉回復

画像 : 榎本武揚との友情は戊辰戦争後も続いた public domain
新政府軍の戦いに敗れ、フランスに帰国すると、榎本に協力したブリュネたちは厳しい取り調べを受けました。
軍法上は、上官の帰還命令に背いて任地にとどまり、しかも戦闘に加わった扱いとなるため、本来であれば軍法会議に付され、重い処分を受けてもおかしくない状況でした。
ところが、事態は意外な方向へ進んでいきます。
日本人の教え子たちへの思いを記したブリュネの辞表が徐々に知られるようになり、フランス国内では彼に理解を示す声が広がったと伝えられています。
ただ、最終的に彼が厳罰を免れた最大の要因は、帰国直後に起きた国際情勢の急変でした。
1870年、フランスとプロイセンとの間で「普仏戦争」が勃発したのです。
有能な砲兵将校であったブリュネの能力が必要とされたため、彼は軍法会議を免れ、一時的な停職(戒告)という軽い処分で済みました。
ブリュネはすぐに軍務へ復帰すると、普仏戦争で戦功を挙げ、名誉を回復することに成功したのです。
そして、ブリュネと日本との縁も、ここで終わりではありませんでした。

画像 : 1890年頃のジュール・ブリュネ。『函館幕末・維新』所収写真より。Public Domain
1895年、ブリュネは日本政府から「勲二等旭日重光章」を授与されます。
これは、当時の政府が外国人に授与する最上位クラスの勲章でした。
このとき勲章の贈呈を働きかけたのは、新政府のなかで閣僚にまで出世していた榎本武揚でした。
かつて共に戦った二人は、立場を変えて再会を果たしたのです。
函館・五稜郭の戦いに敗れ、投獄された榎本でしたが、その卓越した才能を明治政府は高く評価します。
赦免後は新政府に登用され、逓信大臣や文部大臣などを歴任。
かつての敵将は、明治政府の重鎮として活躍することになったのです。
1911年8月12日、ブリュネはパリ近郊で亡くなりました。
晩年まで上司であったシャノワーヌと共に、フランスにきた日本人留学生の世話をしていたと伝えられています。
参考 :
佐藤賢一(2015)『ラ・ミッション ―軍事顧問ブリュネ―』文藝春秋
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
























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