2017年春、文部科学省は「鎖国」の表記を「幕府の対外政策」に変更する新学習指導要領案を発表した。幕藩体制の象徴である鎖国の文字が消えるのかと歴史ファンがざわついたのを知っているだろうか?
そこには「鎖国」という言葉の曖昧さが関係していた。
鎖国 の始まり
※徳川家光
鎖国の開始は、3代将軍・徳川家光の時代であった。
キリスト教及び日本人の出入国を禁止し、外国船の来航も規制された。「その結果、長崎が唯一の貿易港となり、日本は世界から孤立した」が歴史の常識かと思いきや、それに異を唱え『鎖国は不適切な歴史用語』と捉える研究者も少なくないという。
確かに、一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼んでいる。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流なのだ。つまり、「鎖国の状態」とは、南蛮船など特定の相手との貿易を管理、制限した結果であり、完全に国際社会から孤立していたわけではなかった。
四口
※長崎の出島
不適切論者の論拠が「4つの口」の存在である。幕府は通商国のオランダや中国と貿易する長崎の他、対馬、薩摩、松前の各藩を海外交渉窓口と定め、それらを「四口(よんくち)と呼んだ。
対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められており、薩摩藩も琉球王国を攻略、支配したことで、琉球を通じての貿易権を与えられている。
松前藩の松前氏は蝦夷地で北方貿易を行ってきた。その権限は江戸時代に入っても引き続き認められ、松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられていた。
そして、長崎はオランダと清朝中国との貿易を行うため天領となり、幕府の直轄地としてその管理下で貿易が行われたのである。その実態は「鎖国」という閉鎖的語感からは程遠い。これが『鎖国は不適切な歴史用語』とする根拠である。
しかし、通商・通信以外の船が厳しく打ち払われ、日本人の海外渡航が禁止されていたのは紛れもない事実だ。4つの口は一見世界に開かれているようで、実際には自由な出入りのできない「小窓」にすぎず、事実上の鎖国は行われていた。
文科省は「一般から寄せられた意見を踏まえ、鎖国の表現は変更しない」と後に表明している。
黒船来航
※嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航
鎖国は、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が浦賀に来航したことに始まる「日米和親条約」の締結により終焉を迎える。1854年、幕府は下田と函館の開港を認めた。
もちろん、それ以前から開国を求めるなどの理由で外国船の来航はあった。
ロシアも蝦夷地(北海道・千島列島・樺太)に来航して開国を求めたが、幕府はこれを拒否したために両国間に緊張が高まった。さらにフランス革命戦争とナポレオン戦争の余波も日本に及んだ。本国をフランスに占領されてしまったオランダ商人の依頼で、数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行ったこともあった。
そして、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の再来航により、鎖国は崩壊した。
これを機に幕府は使節や留学生を欧米に派遣するようになるが、一般人の渡航禁止は明治になるまで続いた。だが、薩摩藩や長州藩は前途有望な人物を秘密裏に渡英させ、様々な学問を修めさせている。そうした幕末の密航者には、新生日本の礎を築いた伊藤博文や、井上馨(いのうえかおる)、関西経済界の重鎮・五代友厚らもいた。
鎖国が明治を支えた
※生糸(シルク)
2世紀にわたった鎖国は「国際情勢の把握と科学技術の進歩を阻み、日本の近代化を遅らせた元凶」とされがちだ。
しかし、その見方は一方的なものである。
なぜなら、幕府はオランダ商館長が入港ごとに提出する『オランダ風説書』や『唐船風説書』、イギリス系新聞を基にした『別段風説書』などで、西洋やインド、中国などの情報を得ていた。さらにアヘン戦争の勃発やペリー来航の予兆もつかんでいたという。各藩も西洋の書物に学び、独力で反射炉まで完成させている。
そうした事実を踏まえた上で、鎖国はむしろ日本に大きなアドバンテージをもたらしたといえる。
外国との紛争に巻き込まれず、平和が長く続き、歌舞伎などに代表される独自の文化が発展した。さらに、貿易の制限は国内産業の成長にもつながった。
例えば、江戸初期、中国や朝鮮から輸入するしかなかった生糸や木綿は鎖国中に生産量が激増する。これらが明治時代以降は主要な輸出品として外貨獲得に貢献し、日本の近代化を支えたのだ。
最後に
歴史は見方を変えると色々なことが見えてくる。
短期的には鎖国は日本の近代化を遅らせたが、おかげで江戸時代は平和が続き、さらに明治になり急速な近代化を遂げることができた。
結果論ではあるが、長期的に見れば日本にとってはプラスである。当然、鎖国開始時にはそのような意図はなかったが、それが歴史の面白さだ。
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