地理

北海道の名付け親・松浦武四郎と蝦夷地について調べてみた

松浦武四郎
※松浦武四郎

東北6県と新潟県を合わせた面積に匹敵するその広大な土地は、日本国に接していながら明治以前まではその多くの地域で縄文時代とさほど変わらぬ漁猟生活が営まれていた。

1604年、徳川家康により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれるが、それでも勢力範囲は道南の函館から熊石までの数十里の地(松前地と呼ぶ)であり、まさに未開の大地であった。

その土地に足を運び「北海道」と名付けた男、その男こそが松浦武四郎である。

彼はなぜ、蝦夷と呼ばれていた土地に向かったのだろうか?

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蝦夷地


※1783年に描かれた日本地図。蝦夷は描かれていない

蝦夷地(えぞち)とは、大和朝廷の支配下に入るのを拒んだ人(蝦夷:えみし、えぞ)の住む地域のことであり、時代により範囲は異なる。奈良時代では中部地方から東が蝦夷地であった。日本が統一されてゆくに従い、次第に東、北へと範囲は狭まってゆく。やがては日本人(和人)がアイヌの居住地を指して用いるように変化していった。
現在では、北海道を中心に樺太や千島列島を含む地域の古称を指す。

江戸時代になると松前氏が大名に列し、松前藩(現在の北海道松前郡松前町)となる。そして、北海道太平洋側と千島を東蝦夷と呼び、北海道日本海側と樺太を西蝦夷地と呼んだ。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、これがアイヌ民族との本格的な交流の始まりとなった。

ところが寛政から文化期に入ると幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、1799年(寛政11年)に東蝦夷地を、1807年(文化4年)に西蝦夷地を天領(幕府直轄領)として、1809年、カラフト島の呼称を北蝦夷地と正式に定めた上で東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じた。

幕府は戦略的にも蝦夷地の存在が無視できなくなったのである。

間宮林蔵


※間宮林蔵

間宮林蔵(まみやりんぞう 安永9年(1780年) – 天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の徳川将軍家御庭番である。御庭番(おにわばん)とは、将軍や老中などの命を受けて隠密活動に従事する役職のことであり、林蔵も後に御庭番として、樺太を探索することとなる。

それに先立ち、寛政11年(1799年)、国後島、択捉島、得撫島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。文化5年(1808年)には幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシでアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。

松田伝十郎は、松前奉行戸川筑前守の命により間宮林蔵と樺太に渡った松前藩の役人であり探検家である。現地の聞き取りや北に行くにつれて海が狭くなり、浅瀬になり潮流も強くなることからほぼ樺太が島であることを確信した松田だったが、一度江戸に戻ることになり、間宮はその足で調査を続け樺太が島であることを発見した。

樺太


※樺太と周辺の地形

蝦夷地(北海道)の調査はおろか、開拓もされていない時代にさらに北方の樺太(からふと)まで調査を行ったことは興味深い。北海道の北方に位置しており、島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である。

それでも北海道に匹敵する面積なのだ。しかし、その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。これほど極寒の地で平地も少ないとなれば領土としての価値はなさそうに思えるが、そこにはロシアとの地理的理由が関係していた。

西のユーラシア大陸とは間宮林蔵が発見した間宮海峡を挟み、南の北海道とは宗谷海峡により隔てられているが、ロシアが軍を南下させる場合にはこのルートがもっとも北海道に早く進行できると考えられた。そのためもあり、樺太の調査が進められたのである。

なお、現在でも同ルートの海峡にトンネルを掘り、シベリア鉄道から北海道までを線路でつなぐ計画がロシアと日本の間で存在している。

アイヌ


※アイヌ民族

アイヌは北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族であり、現在でも日本やロシアに居住している。
現在の北海道に居住していたイメージから「(文化的に)日本人」と勘違いされるが、決められた領土を持たないアイヌという文化圏で生きてきた民族である。そのため、最初は内地の人間との意思疎通もままならなかった。

中世以降、大和民族(和人)はアイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた。アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。しかし、もともと文字を持たない民族であったため、詳細は不明であり13~14世紀になって、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われたあたりからその文化がわかってきた。

アイヌの伝統的な分布地は、北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ、東北地方北部である。なお、北海道、千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである。

松浦武四郎


※1880年代、明治に作成された日本地図。北海道の全体像も描かれている。地名の多くは、アイヌ語由来のカタカナで書かれている

松浦武四郎(まつうらたけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日) – 明治21年(1888年)2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家である。

16歳から諸国をめぐり、天保9年(1838年)には僧となるが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、僧をやめて蝦夷地探検に出発した。間宮林蔵が樺太を回ってから30年以上後のことである。

興味深いのは役人として蝦夷地を訪れただけでなく、生涯では北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺したという。天神(菅原道真)を篤く信仰していたことから、学問的探究心が強かったのだ。また、生来の旅好きでもあり、全国を回る人生を過ごしてきたため、蝦夷地へ向かう足も軽かった。

明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に、アイヌ民族への搾取を温存する開拓使を批判して職を辞する。

最後まで松浦は蝦夷地を調査対象として扱い、政治的な干渉を嫌ったのだ。

「北加伊道」の名も、松浦がアイヌとの交流の中で「自分たちの土地をカイと呼ぶ」と聞いていたため、アイヌの文化を尊重しその文字を入れている。

最後に

「蝦夷」「蝦夷地」の言葉やその意味は知っていたが、それが時代により変化したこと、本格的に調査されたのは江戸時代末期から明治初期だったことがわかった。
アイヌの資料が少ない現在、彼ら探検者たちの残した功績はとても大きい。

 

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