25歳の老中
阿部正弘(あべまさひろ)は、25歳の若さで徳川幕府の老中に就任、第12代家慶、第13代家定の二人の将軍に仕えて開国という難事にあたりました。
凡そ200年にも及んだ徳川幕府の鎖国政策を終焉させたことで、もはや幕府には政権を担う力がない事を図らずも示すことにはなりましたが、その政治手腕は秀でた部分も多々ありました。
殊に先見性と人材登用において、幕府にとどまらずその後の日本の発展にも痕跡を残しています。
若くして未曽有の国難に対したその業績を調べてみました。
藩主就任と幕閣への参画
正弘は文政2年(1819年)に第5代備中福山藩主・阿部正精の五男として生まれました。
阿部氏は、福山に移封された後、明治の廃藩置県まで10人の藩主が務めましたが、その中から幕府の老中を4人も輩出した譜代大名の名家として知られていました。
正弘は天保7年(1836年)に病弱だった兄の隠居に伴い17歳にして第7代藩主に就任しました。
幕閣においては、翌天保9年(1838年)9月に奏者番(19歳)、続いて天保11年(1840年)5月には寺社奉行見習(21歳)、同年11月には寺社奉行へと任じられます。
その後、行政手腕を評価されてやがて25歳にして老中へと登用されることになっていきます。
寺社奉行での手腕
正弘が第12代将軍・家慶に見い出されるきっかけとなったのが、寺社奉行のときに行った目白・感応寺の破却処理でした。
この事件は、家慶の前の将軍・家斉の治世において、その大奥に属した女性らと感応寺の僧侶が不適切な関係を持っていたという事件でした。
家斉は既に死後していたとはいえ、将軍家である徳川幕府の体面を保ちつつ、感応寺の首謀者らを処断し、大奥については限定的な処理にとどめて後に禍根を残さぬように手を打ったものでした。
謂わば醜聞のもみ消しではありましたが、正弘の手際のよさ・高い問題処理能力を家慶に認識されたと伝わっています。
幕閣の頂点へ
正弘は先の寺社奉行就任から3年後の天保14年(1843年)、25歳で老中へと就任しました。
翌天保15年(1844年)幕閣に、一度罷免されていた水野忠邦が老中首座に復帰し、正弘との主導権を争う事態が発生します。
この政争を制した正弘は、弘化2年(1845年)9月に自らが老中首座となり、27才にして幕閣の頂点に立ちました。また同年、薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の徳川斉昭などの諸侯に意見を求め、その内容を幕政に反映
させるよう働きかけています。
正弘に関する巷説として、人の話はよく聞くが自分の意見は述べない人物だったと伝えられています。
この事が、一部からの優柔不断と批評される一因ともなっていると考えられていますが、本人は自分の意見を主張すると言質をとられ、批判の材料にされると語ったそうです。
強力な指導力を発揮するという人物ではなく、あくまで調整型の人物であったと思わせる巷説となっています。
黒船来航
弘化3年(1846年)にアメリカの東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航、通商を要求しましたが、正弘は国是である鎖国を根拠としてこれを拒否しました。
しかしその7年後、嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリー率いる東インド艦隊が浦賀に来航し、アメリカ大統領の親書を持参して開国を迫りました。
更に同年7月にはロシアのプチャーチン率いる艦隊が長崎に来航、高まる外圧にさらされましたが、正弘は具体的な対策を講じる事は出来ませんでした。
翌嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、再び来航したペリーとの間についに日米和親条約を締結することになり、遂に凡そ200年にもわたった鎖国に終止符が打たれることとなりました。
安政の改革
開国を余儀なくされた中において、正弘は講武所(後の陸軍)、長崎海軍伝習所(後の海軍)、洋学所(後の東京大学)などを設置しています。
また勝海舟、永井尚志なの人材を登用して海防の強化に務めました。また外国の船と日本の船との識別を目的とした旗を掲げる必要から、「日の丸」を国旗に制定しました。
こうした政策は後に「安政の改革」と呼ばれる、近代日本の礎ともなりました。
正弘は、安政4年(1857年)に老中職に在任したまま江戸で急死、享年39の短い生涯を閉じました。死因については、肝臓癌という病死説が有力とされています。
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