日本初の近代戦争
日清戦争(にっしんせんそう)は明治維新後27年を経て、日本が行った近代初の対外戦争です。
この戦争は1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月の間に日本と当時の中国の清王朝との間で行われたものでした。
日清戦争は、大きくは朝鮮半島の支配権を巡って行われた戦争でした。当時の清王朝はイギリスなどの欧米の列強諸国の浸食を受けて弱体化しており、その中で未だ影響力を及ぼせる属国として李氏朝鮮を勢力下に置いていました。
日本は欧米列強の侵略に対抗する明治維新を成し遂げ、近代国家としての歩みを進める中で朝鮮が特にロシアの支配下に置かれることを警戒していました。
そのため朝鮮に対しても清への従属ではなく、近代国家としての独立を希望し且つ、日本の国益に叶う政権の樹立を企図していました。
東学党の反乱
1894年(明治27年)1月、李氏朝鮮において「東学党」と呼ばれた宗教団体の煽動により、農民の大規模な反乱が発生しました。
この反乱で首都であるソウルも混乱に見舞われた李氏朝鮮は、自らの力によってその鎮圧が出来なかったことから、同年の5月に宗主国である清への派兵を要請しました。
この清の派兵を察知した日本も天津条約に基づいた日本人居留者の保護を名目として派兵を決めました。こうして李氏朝鮮は日清両国の軍の駐留を許すことになり、当初は清への派兵を自ら要請した李氏朝鮮でしたが、その状況に危機感を抱くと「東学党」と急遽和睦をして、6月には反乱を収拾し日清両国への撤兵を求めました。
しかし日本は撤兵を拒否すると同時に、李氏朝鮮対する国内改革を要請しました。清も日本への対抗上そのまま派兵を継続しました。
こうして李氏朝鮮の首都・ソウルにおいて日清両軍が対峙する状況が発生しました。
日英通商航海条約の締結
一方、日本の外務大臣・陸奥宗光はイギリスとの条約締結に向けた折衝を続けていました。
この結果、1894年(明治27年)7月、遂に「日英通商航海条約」を締結することに成功しました。
この条約締結の背景には、ロシアの南下政策を警戒したイギリスが、日本とその点について利害の一致を見たことで、不平等条約の一部改正となる治外法権の廃止に同意したものとされています。
この条約の締結によって日清の争いに大国イギリスの中立を確かなものとしたことで、日本は翌17日に清国と戦争を開始することを決定、同月23日に朝鮮王宮を占拠し、朝鮮の独立の意向表明と清の撤兵を促しました。
ここに李氏朝鮮下の治安維持を名目を掲げ、同年7月25日からの戦闘によって清の部隊をソウルから排除し、周辺を支配下に収めた日本は、同年8月1日に清に対して宣戦布告を行いました。
日清戦争 の推移
日本陸軍に対して、清の陸軍は平城で防衛線を築こうとしたものの、1894年(明治27年)9月16日に敗退し、これにより朝鮮半島は日本が制圧することになりました。
海上においては翌17日に日本海軍の連合艦隊が清の北洋艦隊との黄海海戦を行い、清は主力の軍艦3隻を失う敗北を喫しました。
このときまでは日清戦争は朝鮮半島と黄海を戦場に争われましたが、同年10月に日本陸軍は鴨緑江を越えて清国の内部へと侵攻、続いて遼東半島に侵攻すると、同年11月には旅順を陥落させて占領しました。
翌1895年1月の末には、日本海軍は清の北洋艦隊の拠点であった威海衛への攻撃を行いました。日本陸軍も山東半島への上陸を行い、陸上からの攻撃も行いました。
翌2月には水師提督丁汝昌が自決し、これにより士気の大幅な低下を招いた清は継戦を諦めて休戦交渉に同意しました。
講和と三国干渉
清側からは李鴻章、日本側からは伊藤博文・陸奥宗光らが参加して、日本の下関で講和会議が進められました。
この講和会議に際し、日本は台湾を併合したことを既成事実とするため、台湾に不随していた澎湖諸島を占領しました。
1895年(明治28年)4月17日に日清講和条約が締結され、この条約において日本は、李氏朝鮮の独立を清に認めさせ、台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲を受け、賠償金2億両の支払いを受けました。
しかしこの直後、同月23日に露仏独三国から遼東半島の返還を求めた要求(三国干渉)が行われ、日本は一旦手に入れた遼東半島を返還することになりました。
そしてこのことが、10年後の日露戦争への導火線となっていきました。
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