知名度と武士の矜持
福澤諭吉(ふくざわゆきち)は、現在の一万円札にも肖像画が使われるなど、日本で最も知名度の高い人物のひとりではないでしょうか?
福沢と言えば「学問のすゝめ」の著作や、慶応義塾大学の創始者として明治を代表する教育者という印象が強いと思いますが、徳川幕府に仕えた幕臣でもありました。
とりわけ、「学問のすゝめ」の一説「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」が有名であるため、現代風の平等主義者のように思われるかもしれませんが、武士としての矜持をも持ち合わせた人物でした。
適塾へ学ぶ
福沢は天保5年(1835年)に豊前・中津藩の下級藩士・福澤百助の次男として生まれました。
安政元年(1854年)の19歳のときに黒船来航によって西洋砲術に対する関心が高まったことから長崎へと赴き、オランダ流の砲術を学ぶためにオランダ語から学んだと伝えられています。
翌安政2年(1855年)に大阪に上った福沢は、その地で蘭学・医学者の緒方洪庵が主宰していた適塾に学ぶことになりました。
福沢は、一時病気に入り中津へ帰国したものの、再度適塾に戻ると安政4年(1857年)の22歳のときに最年少の塾頭に選ばれるまでに蘭学の研鑽を積みました。これが中津藩の目に留まり江戸の中津藩邸での蘭学の講師に起用されることになりました。
勝海舟との因縁
福沢は、幕府の咸臨丸をアメリカへと遣わすことになった万延元年1月19日(1860年2月10日)、咸臨丸の艦長となった軍艦奉行・木村摂津守の従者となって渡米しました。
このとき福沢は咸臨丸の実際の指揮を行った勝海舟と出会いますが、これが後に福沢の中の武士の矜持を発露させるきっかけとなったものでした。
福沢と言えば先のように、平等主義者と思われがちですが、このときの福沢は木村の従者として渡米出来た事もあり、家柄によって軍艦奉行となっていた木村に恩を感じており、実際の航海の上では責任者として居丈高な態度をとっていたとされる勝に対して、終生悪印象を抱いたままでした。
尚、福沢は帰国後には木村に推される形で、中津藩士のまま幕府の外国方に起用され幕臣となりました。
福沢諭吉 痩せ我慢の説
慶応3年(1867年)12月、王政復古が行われて明治の世に移ると、福沢は新政府からの出仕を断って翌年には帯刀を止め、武士たる事を辞しています。同時に江戸に開設していた蘭学塾を慶應義塾として教育者としての道を進みました。
そして福沢が、かつての幕臣でありながら新政府に出仕して地位を得た勝と榎本武揚に対して、痛烈な批判を浴びせた書簡が「痩せ我慢の説」でした。
この中で福沢は、徳川家に忠実であった三河の武士達の忠義を讃えました。福沢は西洋の制度・考え方を熟知してはいましたが、反面武士としての矜持も失っていませんでした。
この書簡において福沢は、勝の江戸城明け渡しについて、江戸の民を救ったというものの、武士として戦わずして城を明け渡すとはいかがなものかと批判しました。
また、例え命が損なわれてもそれは一時のことに過ぎず、武士道が失われたことは取り返しが使いという考えを示しました。
さらに福沢は、武士の風上にも置けない振舞いをした上で、更に新政府に仕えるなど恥はないのかとまで批判しています。
公武合体論
福沢は、日本国内での内戦を防ぐため、江戸城を無血開城したという理屈を良しとはしませんでした。
むしろ長州征討のときに外国から介入を招いたとしても、攘夷を至上の物価値と考えていた長州は絶対に許しがたいと考えてたようです。
してみると福沢の考えは、「公武合体」策に近いものであったのではないかと思われます。
勝は、鹿鳴館の運用や、西洋の砲艦外交を真似たような日清戦争での政府の在り方を批判しました。
一方福沢は政府の基本的な政策には同意を示しつつも、その手法に納得ができなかったものと考えられます。
この記事へのコメントはありません。