幕末明治

福沢諭吉【やせ我慢で武士の矜持を示した幕臣】瘠我慢の説

知名度と武士の矜持

画像 : 福沢諭吉 public domain

福澤諭吉(ふくざわゆきち)は、現在の一万円札にも肖像画が使われるなど、日本で最も知名度の高い人物のひとりではないでしょうか?

福沢と言えば「学問のすゝめ」の著作や、慶応義塾大学の創始者として明治を代表する教育者という印象が強いと思いますが、徳川幕府に仕えた幕臣でもありました。

とりわけ、「学問のすゝめ」の一説「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」が有名であるため、現代風の平等主義者のように思われるかもしれませんが、武士としての矜持をも持ち合わせた人物でした。

適塾へ学ぶ

※福澤諭吉旧居(ふくざわゆきちきゅうきょ)は、福澤諭吉が幼少年期を過ごした大分県中津市にある旧居である。wikiより

福沢は天保5年(1835年)に豊前・中津藩の下級藩士・福澤百助の次男として生まれました。

安政元年(1854年)の19歳のときに黒船来航によって西洋砲術に対する関心が高まったことから長崎へと赴き、オランダ流の砲術を学ぶためにオランダ語から学んだと伝えられています。

翌安政2年(1855年)に大阪に上った福沢は、その地で蘭学・医学者の緒方洪庵が主宰していた適塾に学ぶことになりました。

福沢は、一時病気に入り中津へ帰国したものの、再度適塾に戻ると安政4年(1857年)の22歳のときに最年少の塾頭に選ばれるまでに蘭学の研鑽を積みました。これが中津藩の目に留まり江戸の中津藩邸での蘭学の講師に起用されることになりました。

勝海舟との因縁

※勝海舟 1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影

※福沢諭吉 1862年 パリの国立自然史博物館にて撮影

福沢は、幕府の咸臨丸をアメリカへと遣わすことになった万延元年1月19日(1860年2月10日)、咸臨丸の艦長となった軍艦奉行・木村摂津守の従者となって渡米しました。

このとき福沢は咸臨丸の実際の指揮を行った勝海舟と出会いますが、これが後に福沢の中の武士の矜持を発露させるきっかけとなったものでした。

福沢と言えば先のように、平等主義者と思われがちですが、このときの福沢は木村の従者として渡米出来た事もあり、家柄によって軍艦奉行となっていた木村に恩を感じており、実際の航海の上では責任者として居丈高な態度をとっていたとされる勝に対して、終生悪印象を抱いたままでした。

尚、福沢は帰国後には木村に推される形で、中津藩士のまま幕府の外国方に起用され幕臣となりました。

福沢諭吉 痩せ我慢の説

慶応3年(1867年)12月、王政復古が行われて明治の世に移ると、福沢は新政府からの出仕を断って翌年には帯刀を止め、武士たる事を辞しています。同時に江戸に開設していた蘭学塾を慶應義塾として教育者としての道を進みました。

そして福沢が、かつての幕臣でありながら新政府に出仕して地位を得た榎本武揚に対して、痛烈な批判を浴びせた書簡が「痩せ我慢の説」でした。

この中で福沢は、徳川家に忠実であった三河の武士達の忠義を讃えました。福沢は西洋の制度・考え方を熟知してはいましたが、反面武士としての矜持も失っていませんでした。

この書簡において福沢は、勝の江戸城明け渡しについて、江戸の民を救ったというものの、武士として戦わずして城を明け渡すとはいかがなものかと批判しました。

また、例え命が損なわれてもそれは一時のことに過ぎず、武士道が失われたことは取り返しが使いという考えを示しました。

さらに福沢は、武士の風上にも置けない振舞いをした上で、更に新政府に仕えるなど恥はないのかとまで批判しています。

公武合体論

福沢は、日本国内での内戦を防ぐため、江戸城を無血開城したという理屈を良しとはしませんでした。

むしろ長州征討のときに外国から介入を招いたとしても、攘夷を至上の物価値と考えていた長州は絶対に許しがたいと考えてたようです。

してみると福沢の考えは、「公武合体」策に近いものであったのではないかと思われます。

勝は、鹿鳴館の運用や、西洋の砲艦外交を真似たような日清戦争での政府の在り方を批判しました。

一方福沢は政府の基本的な政策には同意を示しつつも、その手法に納得ができなかったものと考えられます。

 

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 函館の五稜郭を造った男・武田斐三郎
  2. 天竜川の救世主・金原明善って知ってる? 幕末から大正まで大活躍の…
  3. 明石元二郎 〜日露戦争の影の功労者【一人で日本軍20万に匹敵する…
  4. もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?
  5. 【鎖国は正解だった!?】明治の発展は鎖国のおかげ!
  6. 結果は意外にも「引き分け」薩英戦争について調べてみた
  7. 日露戦争について調べてみた【明治維新後40年足らずでの大国との戦…
  8. 玄洋社について調べてみた【大アジア主義を唱えた政治結社の草分け】…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

まさに筋金入り!日本のお役所仕事・先例主義は律令時代から続いていた

「先例がありません」お役所を相手に仕事をしていると、少なからず耳にするこのセリフ。まったく、…

逆から見た忠臣蔵 「吉良上野介は本当に悪者だったのか?」

今から約320年前の元禄15年(1702年)12月15日、大石内蔵助率いる赤穂浪士・四十七士が江戸本…

葛飾北斎の魅力「あと5年で本物になれた」画狂老人

穏やかな広重に対し、色鮮やかでダイナミックな北斎の浮世絵版画。しかし、彼はどこまでも貪欲であった。特…

縁日の定番『金魚すくい』の意外な歴史とは 「金魚救いだった?」

みなさんは縁日の定番といったら何を思い浮かべますか?たこ焼き、綿菓子、金魚すくい、ヨーヨー釣…

『古代中国の魔性の女』男たちが次々と虜になり、国が滅んだ絶世の美女

中国史には「紅顔禍水」と呼ばれる女性が多く登場する。「紅顔」とは美人のことを指し、「禍水」は…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP