江戸時代

逆から見た忠臣蔵 「吉良上野介は本当に悪者だったのか?」

今から約320年前の元禄15年(1702年)12月15日、大石内蔵助率いる赤穂浪士・四十七士が江戸本所にあった吉良邸に討ち入り、主君の仇である「高家肝煎(こうけきもいり)・吉良上野介(きらこうずけのすけ)」を討ち取った。

この仇討ち事件は江戸の人々の関心を集め、四十七士の切腹からわずか12日後には一連の赤穂事件を題材にした歌舞伎の演目が中村座で行われた。
それから46年後には人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」が大人気となった。

主君の仇を討った赤穂浪士たちは忠義の志士として称賛され、討ち取られた吉良上野介は意地悪で強欲な悪者、敵役(かたきやく)やアンチヒーローとされてしまった。

しかし本当に吉良上野介は悪者だったのだろうか? 実は吉良上野介が治めていた国許では今も名君として称えられているのだ。

今回は逆の吉良上野介側から忠臣蔵を見ることで、吉良上野介の実像について迫ってみた。

刃傷事件の概要

逆から見た忠臣蔵

浅野長矩(あさのながのり)浅野内匠頭

元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城松之大廊下で、高家肝煎・吉良上野介に斬りかかった。

この時代は喧嘩両成敗で双方切腹という裁きが慣例であったが、何故か上野介には何のお咎めもなかった。

上野介は幕府の取り調べで「何の恨みも受けたことがない、浅野の乱心としか言いようがない」と言った。
一方、内匠頭は「お上に対しては何の恨みもないが、吉良には私なりの遺恨があった。そのため前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」と答えた。

江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している最中であったため、場所柄もわきまえず刃傷に及んだ浅野内匠頭に第5代将軍・綱吉が激怒して即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を改易とされた。

現場にいて内匠頭を取り押さえた梶川頼照という旗本は「内匠頭に斬りかけられても吉良様は一切刀に手をかけていない」と証言したという。

この証言があったことで上野介はお咎めなしとなり、殿中で手向かいしなかったことは立派であると褒め称えられ、将軍・綱吉は見舞いの言葉までかけたという。

吉良上野介が厚遇された理由

逆から見た忠臣蔵

吉良上野介

上野介がこの時、将軍・綱吉から厚遇されたのは二つの理由があるとされている。

一つには上野介の経歴が関係する。

そもそも吉良氏は清和源氏の流れを汲む名門で、室町時代には「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われるほど高い家格を誇っていた。
江戸時代には上野介の祖父が徳川幕府の儀式や祭礼を司り、朝廷との連絡や交渉を努める「高家(こうけ)」に就任している。

上野介は吉良流と呼ばれる高家の流儀を受け継ぎ、綱吉が将軍宣下を受ける時に取り次ぎを担当したのである。

43歳になった時に高家の中でも筆頭格の「肝煎(きもいり)」となった。石高はわずか4,200石の旗本だが、官位は並みの大名よりも高く、従四位上だった。
朝廷を重んじる綱吉にとって上野介は大事な存在であったのだ。

二つ目の理由が血縁関係だ。

上野介は米沢藩主・上杉定勝の娘を娶り2男3女を設けるが、後に上杉家に男子の世継ぎがなく断絶の危機になった時、上野介の長男を上杉家の養子に出した。
その息子は名を上杉綱憲と改めて紀州徳川家の栄姫と結婚した。そして栄姫の兄が綱吉の娘と結婚していたことから上野介と将軍・綱吉は遠い親戚関係となっていたのである。

血縁的にも上野介は綱吉から厚遇される理由があった。

刃傷事件の理由

忠臣蔵では上野介が内匠頭をイジメ抜いていることから、事件の原因は上野介への恨みだったとされている。

これには二人の立場が関係していて、事件が起きた時に内匠頭は朝廷の使者をもてなす饗応役を務めていた。
その饗応役の指南役が高家肝煎の上野介だったのである。饗応役を務める大名はどんな大大名であっても高家肝煎から教えを受けていた。

つまり上野介の方が立場は上だった。忠臣蔵では権力を笠に内匠頭を理不尽な理由でとことんイジメ抜き、いわゆるパワハラ的なことで恨みを買ったとされている。
しかし内匠頭は詳細を語らないまま切腹したために、様々な憶測が飛び交った。

賄賂説

例えば、内匠頭の奥方が美人で横恋慕したとか、赤穂藩の塩の技術を盗むためだったという説があるが、この話は創作とされている。

最も広く知られているのは賄賂説で、これは内匠頭が上野介に賄賂を贈らなかった、もしくは賄賂の額が少なかったためにイジメ抜かれたというものだ。
この話は根拠のない話ではなく、大名たちは上野介に賄賂を贈り様々なことを教えて貰っていたのは事実であった。
しかし内匠頭は頑として賄賂を贈ろうとはしなかった。それを上野介は不快に思い嫌がらせをするようになったという。

官位こそ高い上野介だが禄高は4,200石で、内匠頭は5万石の大名である。そのような場合はは石高の高い大名が相応の謝礼を払うのが武家社会の常識で、それをしなかった内匠頭の方が非常識とも言える。
上野介が貰っていたのは今で言う賄賂ではなく、支払われるべき謝礼金だった。

実はこの頃、吉良家の財政は相当ひっ迫していたとされ、謝礼金を払おうとしなかった内匠頭を上野介が快く思わなかった可能性は大いにある。

儀式の予算

逆から見た忠臣蔵

浅野内匠頭は朝鮮通信使饗応役の一人に選ばれていた

更に上野介が内匠頭への心証を悪くした原因として、儀式の予算の問題があった。

饗応役に任命された者は、それに係る費用を自費で負担しなければならなかったが、内匠頭は700両(現在の価値で約7,000万円)あれば足りるだろうと考えていた。
しかし、上野介は高家としての長年の経験から最低でも1,200両(現在の価値で約1億2,000万円)必要だと指南したが、内匠頭はこれを頑として聞き入れなかった。

上野介は嫌がらせで費用を高く言った訳ではなく、高家としての経験から助言をしたのである。
そして実際に700両では足りず、内匠頭の見通しが甘かったという結果になった。

こうしたことから上野介は内匠頭を不快に思い、厳しい態度を取るようになり、老中の前で「内匠頭は万事不調法で公家衆も御不快に思われている」とかなり辛辣な発言をして、内匠頭の面目は丸潰れとなった。

忠臣蔵にある「畳の張替えを直前まで伝えなかった」とか「墨絵の屏風を金屏風に無理やり代えさせた」というのは後世の創作であるとされている。
大事な儀式に内匠頭が失敗すれば、それは指南役の高家肝煎の上野介も恥をかくことになるからだ。
上野介が内匠頭に対して厳しく接していたのは事実であろうが、儀式を失敗させる露骨な嫌がらせまではしていなかったと考えられる。

実は内匠頭は生来非常に短気な性格で、感情のコントロールも苦手だったと言われている。

饗応役という大役のプレッシャーと上野介との関係の悪化、事件当日は気持ちが滅入るような曇天で、色々なことが重なって情緒不安定となり、突発的に刃傷事件を起こしてしまったという筋書きも考えられる。

吉良上野介の国許での評価

上野介は、国許の三河では黄金堤という治水事業や新田開発、塩田開発などを行い、地元では領民想いの名君として評価されていたという。
三河では忠臣蔵はなんと戦後(第二次世界大戦後)まで御法度となっていたという。

上野介は若くして茶の湯に傾倒し、千利休の孫にあたる人物に弟子入りして独自の流派まで開いていた。

国許・三河では領民想いのお殿様で茶の湯を愛でる風流人とされ、忠臣蔵に描かれる天下の仇役・大悪人とはかけ離れた人物像であった。
また、2020年には上野介が二人の娘に宛てた手紙が見つかり、上野介の子煩悩振りが伝わってくる優しい内容であったという。

厚遇から冷遇

刃傷事件の12日後、上野介は幕府に退職願を提出し幕府はこれを受理した。
刃傷事件の責任を取ったのか、傷の治療に専念するためなのか、退職の理由は未だに分かっていない。

その年の8月、上野介は突然幕府から発展途上の地である本所に引っ越すように命じられた。
この引越し命令は誰がどんな理由で命じたかは不明である。
ただこれは「赤穂浪士が討ち入りに来ても吉良を守らない」という幕府の宣言とも取れるのだ。
というのもこの頃、江戸市中には赤穂浪士たちが吉良を襲撃するという噂が広がっており、吉良邸の隣人が幕府に「襲撃があったらどうすればよいか?」と尋ねると幕府は「一切構わず自邸内を守るように」と答えたという。

また、赤穂浪士たちが江戸市中で暗躍するようになっても、幕府は特に警戒を強めることなく傍観し続けた。
刃傷事件では刀を抜かなかった上野介を褒め称えて無罪放免にした幕府が、ここに来て上野介を冷遇するようになったのである。

実は将軍・綱吉が内匠頭に下した即日切腹は、余りにも性急ではないかと世間の不評を買っていた。
綱吉が出した「生類憐みの令」で幕府への不満が高まっていた頃で、これ以上幕府の評判を落とさないために上野介は見捨てられ、いわゆる厄介払いで冷遇されたと考えられる。

討ち入り

赤穂浪士からの襲撃を警戒していた上野介だったが、常に本所の屋敷に閉じこもっていた訳ではなく、わずかな供の者と江戸市中を散策し、茶会にも参加していた。
赤穂浪士が中々襲撃してこないので、上野介は本所の屋敷でも度々茶会を開いていた。

逆から見た忠臣蔵

大石内蔵助

元禄15年(1702年)12月14日、この日の茶会の予定が大石内蔵助ら赤穂浪士たちの知るところとなり、討ち入りの決行日となった。
上野介は予定通り茶会を開催し、そのまま酒宴となり床についていた。

外では討ち入りの準備が進んでおり、日付が変わった15日午前3時頃、大石内蔵助率いる赤穂浪士四十七士が討ち入りを決行した。

映画やTVドラマでは上野介側の剣客・清水一学小林平八郎が赤穂浪士相手に死闘を演じたが、実この二人は実在はしていたが剣の達人ではなく、大立ち回りなどの大活躍は全くしておらず、すぐに殺されてしまったというのが真実である。ただ、吉良家の嫡男・義周(よしちか)は赤穂浪士相手に懸命に戦ったという。

また、隠れ部屋や抜け道なども無く、吉良邸は全くの無防備であったという。

上野介を探した赤穂浪士は、台所の裏の物置(炭小屋という説も)のような小部屋にいた白小袖の老人を槍で突き殺した。
吉良側の足軽に確認させると上野介本人であった。大石内蔵助と赤穂浪士は見事に上野介を討ち取ったのである。

吉良側の死者は15人・負傷者は23人であったが、赤穂浪士側には死者はおらず負傷者は2人だけだった。
上野介が命乞いをしたという記述もあるが、命乞いをせずに刀を持って戦って死んだという説もある。

主君の仇を討った赤穂浪士たちは内匠頭の墓前に上野介の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。
その姿を見た江戸の人たちは、赤穂浪士たちを忠義の士と賞賛した。

翌年2月4日、幕府の命によって赤穂浪士たちはお預かりの大名屋敷で切腹をした。

吉良家への処分

世間が赤穂浪士たちを英雄としていたために、上野介の跡を継いだ吉良義周は赤穂浪士たちに討ち入りを許し、上野介を討ち取らせてしまったのは武士として不届きだとして吉良家の領地を没収され、義周は罪人として信濃高島藩主・諏訪忠虎にお預けとされた。

義周の随行の家臣はわずか二人のみ、失意の義周はその3年後21歳という若さで亡くなり、吉良家は断絶となってしまった。

おわりに

吉良家に対する幕府の仕打ちはあまりにも酷い。義周は父を討たれた上に領地まで没収されて、罪人扱いとなってしまった。

幕府は権威と人気の回復のために、民衆の声に迎合し吉良家を悪者に仕立て上げてしまった。

そして、吉良=悪者というイメージは歌舞伎や人形浄瑠璃などで助長され、現代でも吉良上野介は「天下の嫌われ者」として語り継がれている。

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 6月 18日

    マジですか?吉良は悪者ではないんだ、知らないことだらけの浅野内匠頭が悪いのではないか。
    この記事は年末の恒例行事をひっくり返す内容ですね。面白かったです。

    1
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    • アバター

      いつもコメント大変ありがとうございます😊
      実際はどうだったかは誰もわかりませんが、地元での吉良の人気を考えると十分ありえそうですよね。

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 6月 21日

    内匠頭は過去にも饗応役の経験があるので何も知らなかったということはないはず。
    この事件以前から尾張家をはじめとした複数の大名家の日誌や日記には上野介から賄賂の要求やパワハラについて詳しく記載されています。
    赤穂家家臣の日誌から内匠頭は情緒不安定で感情をコントロールできない旨の記載があるので、パワハラで感情がコントロールできず事に及んだかと思います。

    ちなみに義周は逃げようとした結果後ろから斬られたのが理由です。

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