幕末明治

河上彦斎 ~「るろうに剣心」のモチーフと言われる剣客

緋村剣心のモチーフ

河上彦斎 ~「るろうに剣心」のモチーフと言われる剣客

※河上彦斎

河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後の細川藩出身の武士であり、幕末の京において「四大人斬り」の一人と称された剣客です。

人気漫画である「るろうに剣心」の主役・緋村剣心のモチーフとも言われている彦斎は、開国を唱えたことで知られる幕臣・佐久間象山を斬殺したことで名を上げました。

しかし「四大人斬り」とまで謳われた彦斎でしたが、意外にも記録上ではこの象山を斬った件が数えられているのみで、実数は定かではありません。

宮部鼎蔵との知己

河上彦斎 ~「るろうに剣心」のモチーフと言われる剣客

※宮部鼎蔵の像(鼎春園)wikiより

彦斎は天保5年(1834)に肥後・細川藩の武士・小森貞助の次男として生を受けました。

河上家に養子に出され、16歳になると御坊主という雑用を行う最下級の武士として細川藩に仕えました。

雑用を担った御坊主は一部の武士らから蔑んだ見られ方をされていたものの、彦斎は生来の実直な性格故か手を抜かずにこれに励み、合間に学問や武術も学んだと伝えられています。

またこの時に他藩にもその名を知られた細川藩の尊王攘夷派の志士・宮部鼎蔵の知己を得て、自身もその思想に傾倒していきました。

林桜園の元で学ぶ

彦斎は21歳となった安政元年(1854)に、藩の参勤交代に伴って江戸へ上がる機会を得ました。

この時、江戸においてアメリカのペリーの来航と、その砲艦外交に屈して条約を結んだ国の状況を身をもって知ります。

その後、帰国した彦斎は国学者の林桜園の下に学び、尊王攘夷の想いを更に強く抱くようになりました。

林の下では宮部鼎蔵横井小楠吉田松陰らも学んだとされ、当代を代表する攘夷派を輩出していました。

長州の失脚と宮部の死

河上彦斎 ~「るろうに剣心」のモチーフと言われる剣客

※三条実美

文久3年(1863)8月18日に京の政界で発生した政変において、それまで朝廷に強い影響力を持っていた長州と、その同調者の三条実美らの公卿が追放される事態が起こりました。

これら公卿が長州へと落ち延びたことで、彦斎と宮部も細川藩を脱藩して長州へ馳せ参じました。

しかし程なく宮部は再び京に上り、再起を図ろうと京の焼き討ちを企図していた長州の志士らに加わりました。

しかしこの謀は事前に露見し、池田屋に集まっていた宮部らは新選組の襲撃を受けて壊滅しました。宮部もこの時に自刃して果てました。

宮部の訃報を聞いた彦斎は幕府への復讐を誓い、その手段として佐久間象山の暗殺を狙うことになりました。

維新前後の彦斎

※佐久間象山 1811 – 1864

彦斎は上洛すると佐久間象山を狙いました。

馬上の象山を斬りつけた彦斎は、この襲撃を成功させて復讐を果たしました。

一躍「人斬り」としてその名を知られるようになった彦斎は、以降も長州の志士らと行動を共にします。
彦斎は京でも禁門の変を皮切りに、それに敗れた後は長州に逃れて高杉晋作の挙兵にも参加しました。

慶応2年(1866年)に幕府が第二次長州征伐を開始すると、自らの出身の肥後・細川藩が幕府方として出兵していることを知り、これを翻意させようと試みようとしましたが果たせず、そのまま捕縛されることになりました。

その後、慶応4年(1868)1月に起こった鳥羽・伏見の戦いで幕府が朝敵とさせるまで、彦斎は獄に繋がれていました。

佐幕派の細川藩はここに至って、新政府側に与しようと長州の志士らとつながりの深い彦斎を利用するべく、藩の役職に復帰させました。

新政府による処刑

しかし彦斎は攘夷派として、明治新政府が開国を推進している事に納得がいきませんでした。

未だ攘夷思想に忠実であった彦斎は、かつての同志であった桂小五郎(木戸孝允)や三条実美に直に詰め寄ったと伝えられています。

しかし現実的には開国して国力を養うことが優先されるという主張の前に、敢無く退けられることになりました。

その後、彦斎は細川藩の兵学校の教育の役目に就きましたが、そこにかつての同志であった長州の大楽源太郎が訪れます。

大楽は大村益次郎の暗殺などで新政府に追われる立場であった為、彦斎も反政府思想の持主と目されて投獄されました。

そして明治4年(1871年)に処刑されて享年38の生涯を終えました。

関連記事:
佐久間象山 〜勝海舟・吉田松陰を生んだ洋学者

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 山縣有朋 の功績ついて調べてみた【今までの評価は間違い?】
  2. 『大正三美人』九条武子 ~女子教育家・歌人として慈善事業に捧げた…
  3. なぜ明治時代に「人物を祀る神社」が急増したのか?政府の狙いと選ば…
  4. 柴司の忠烈エピソード 「新選組も悼んだその死…主君を救うため自ら…
  5. 江戸時代の侍がニューヨークでアイドルになっていた 【万延元年遣米…
  6. 全身入れ墨の美人盗賊~ 雷お新 「伊藤博文を美人局で脅し、死後、…
  7. 「日露戦争の英雄」乃木希典とはどのような人物だったのか?
  8. 「新5千円札の顔」津田梅子 ~日本の女子高等教育に人生を捧げた津…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

戦国最強軍団・赤備えを受け継いだ猛将たち 「飯富虎昌 山県昌景 井伊直政 真田幸村」

戦国最強軍団 赤備え戦国時代、全身朱塗りの甲冑をまとった「赤備え(あかぞなえ)」という軍…

【奴隷から皇帝の正妻へ】オスマン帝国を操った悪女?一夫多妻制を廃止したロクセラーナ

16世紀のオスマン帝国において、奴隷として連行されながらも皇后にまで上り詰め、「一夫多妻制」…

【ナポレオン三世を操った美人スパイ】 カスティリオーネ伯爵夫人 ~イタリア統一の裏側

19世紀、巧みな外交手腕と美貌でフランス皇帝ナポレオン三世を抱きこみ、のちのイタリア統一へ多…

【古代中国の謎の像】 大立人は一体何を持っていたのか? 「三星堆遺跡」

大立人の最大の謎前回は、古代中国の謎の遺跡「三星堆遺跡(さんせいたいいせき)」と、そこから出土し…

【戦国一の正直者】 仏の高力清長とは ~秀吉も欲しがった三河三奉行 「能力値が高いマイナー武将」

高力清長とは高力清長(こうりききよなが)とは、徳川家康とその父・松平広忠に仕えた譜代家臣である。…

アーカイブ

PAGE TOP