『八重の桜』は、2013年度の大河ドラマであり、主演を女優の綾瀬はるかが務めた。
2011年3月11日に、東日本大震災が発生したことをきっかけに、東北復興を支援するドラマが作れないか…という意図のもと、作成されたドラマである。
このドラマのヒロインは、新島八重。
福島県会津出身で、のちに学校法人同志社を創設した、新島襄(にいじまじょう)の妻となった女性である。
この記事では、そんな新島八重の生涯と、夫となった新島襄について、追ってみたいと思う。
新島八重と戊辰戦争
新島八重(1845~1932)は、江戸時代から昭和初期までの、激動の時代を生きた女性である。
彼女の活躍は、主に幕末から明治時代が中心であり、「幕末のジャンヌダルク」として、現代に語り継がれている。
1845年12月1日、会津藩(現在の福島県)の砲術指南役である山本権八と、妻・佐久の三女として誕生した八重は、女の子ながら、豪胆な性格をしており、米俵を持ち上げることができるほどの怪力だったそうだ。
当時、女性の仕事といえば、料理や裁縫など、主に家の中のものであったが、八重はそれらのことよりも、父親が指南していたという”砲術”に興味を持った。
また、実兄の山本覚馬(かくま)からは、洋式砲術(ピストルの使い方)を学び、幼い頃から、戦闘に関心を持っていたという。
八重が20代前半頃の1868年、戊辰戦争が始まり、会津藩は新政府軍から進攻を受けることになる。
新政府軍には、最新式の兵器が揃っており、会津藩は追い込まれるものの、武家の子女たちは、煮炊きや負傷兵の救護活動などを行い、銃後の守りを固めていた。
そんな中、八重は自ら、スペンサー銃と刀を手に持ち、男子に混じって戦ったのだった。
当時、八重は川崎尚之助という男性と結婚していたが、尚之助は捕虜となり、その後2人が再会することはかなわなかった。
さらに、父・山本権八や弟は戦死、兄の山本覚馬も新政府軍に囚われ、八重は家族はもちろんのこと、故郷である会津を失うことになってしまったのだった。
京都上洛と兄・覚馬
26歳になった八重は、1871年、京都府顧問となっていた兄・山本覚馬のもとへ身を寄せることとなる。
覚馬は、薩摩藩に囚われ、収容されていたが、その優秀さが評価され、翌年、岩倉具視の力添えにより、釈放されている。
そこで八重は、兄の推薦を受け、京都女紅場にて、礼法や養蚕の指導にあたった。
そして、この京都生活で、英語やキリスト教、洋風の生活などを身につけていく。
※京都女紅場とは、1870年代に、女子に対して読み書きそろばんや裁縫、手芸を教えた教育機関のことである。
八重にとって、この兄・覚馬の存在は、とても大きなものだったに違いない。
覚馬は、明治維新の立役者・勝海舟と共に学び、蘭学所を設立するなど、当時から革新的な考えを持った男性であった。
1866年頃からは、長崎へ赴き、ドイツの商人カール・レーマンと鉄砲の購入交渉を行うなど、日本の発展のために、多いに力を尽くした。
そしてこの頃、兄・覚馬のもとに出入りしていた未来の夫、新島襄と出会うのである。
夫・新島襄と「ハンサム」な女性
新島襄(にいじまじょう:1943~1890)は、キリスト教の教育者として活躍した男性である。
1864年、21歳の時に密出国してアメリカに渡り、キリスト教の洗礼を受けて、神学を学んだ。
帰国後は日本国内で、伝道師として活躍し、多くの人々にキリスト教の教えを伝えたという。
新島襄は、八重の潔いふるまいや、革新的な物事の考え方に触れた。
2人は互いに尊重しあい、新島襄はたびたび周囲との確執を生んでいた八重に対し、優しくいさめながら、見守っていたという。
また、新島襄はアメリカの友人へ書いた手紙の中で、八重のことを「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と語っていたという。
欧米スタイルが身についていた新島襄と、男勝りの八重は、まさにお似合いの夫婦であると言えるだろう。
その後、新島襄は、同志社英学校を開設し、学校運営のために奔走するも、急病にかかり、1890年、わずか46歳で急死する。
民間女性初の叙勲
悲しみにくれる八重だったが、その後も彼女は、自分らしく生きる道を選択する。
1890年、新島襄の死後まもなく、八重は日本赤十字社の正社員となる。
1894年に起こった日清戦争では、広島の陸軍予備病院で、看護婦として従軍した。
その際には、40人ほどいた看護婦の取締役として活躍し、怪我・病人の看護はもちろんのこと、看護婦の地位向上についても、さまざまな働きかけをおこなった。
また、1904年には、日露戦争のため、大阪の陸軍予備病院に従軍し、その功績が認められると、政府から勲六等宝冠章を授与された。
皇族以外の女性が、叙勲を受けるのは、史上初めてのことであった。
八重の晩年
1940年11月、八重は、京都市上京区にある、新島旧邸を同志社に寄付する。
この邸は、現在でも学校法人同志社が管理しており、「同志社発祥の地」とされており、京都市指定有形文化財にも指定されている。
1928年には、昭和天皇の即位大礼の際に、様々な功績が認められ、銀杯を下賜されるも、その4年後、病気のため、86歳でこの世を去った。
八重は生涯にわたり、2度の結婚をしたが、夫らとの間に子供をもうけることはなかった。
だが、養子になった娘・初子とは良好な関係を保っており、晩年には養女らのサポートを受けていたようだ。
「幕末のジャンヌダルク」、「会津の巴御前」、「日本のナイチンゲール」など、数々の異名を持つ新島八重だが、その男勝りな豪胆さと、女性らしい慈愛に満ちた心持ちを共存させた、彼女の魅力は、現在でも多くの人の心を動かしている。
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