幕末明治

土方歳三の最後 【5倍の敵を打ち破った二股口の戦い ~箱館戦争】

今回は前編に続いて後編である。

画像 : 高幡不動尊の土方歳三像 photoAC

新選組副長として有名な 土方歳三は、当初は「剣豪」として名を馳せていた。

しかし戊辰戦争において、旧幕府軍として北海道に渡った土方は優秀な「指揮官」としても名を馳せることとなる。

戊辰戦争とは、明治元年における新政府軍 vs 旧幕府軍の日本最大の内戦であり、「鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、江戸開城、上野戦争、宇都宮城の戦い、北越戦争、東北戦争、箱館戦争」など一連の戦争のことである。

今回は明治2年に起こった、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争における戦闘のひとつである「二股口の戦い」と、土方の最後について解説する。

二股口の戦い

土方歳三の最後

画像 : 箱館戦争関連地図 wiki c

明治2年4月9日、新政府軍は乙部に上陸して江差に集結し、土方ら旧幕府軍がいる箱館の五稜郭を目指して3つのルートから進軍を開始した。

その最短のルートが「二股口」という山道を通るルートであった。

広い北海道で山道を通るため、新政府軍がどのルートを進軍してくるのか分からない状況の中、最短ルートである「二股口」には必ず新政府軍の幾つかの部隊が進軍するだろうと土方らは考えたのである。

そして渡島国亀田郡大野村(現在の北海道北斗市中山峠)に土方は急遽出陣し、たった2日間で胸壁と台場山に陣地(自然の要塞)を造り上げた。

二股口を抜けるには谷がある大野川沿いの道を進み、川が二股に分かれる地点で渡河、そしてその正面の台場山を越えるか、迂回する道しかなかった。
土方にとっては新政府軍の進軍ルートが簡単に予想出来た。残る問題は敵兵の数である。

土方の率いる鉄砲部隊は、たった130人しかいなかったのである。

土方歳三の最後

画像 : 二股口の戦いを描いた古地図 中央を流れる川が大野川で、上で合流している川が下二股川。上に台場山の旧幕府軍胸壁、下に天狗山の新政府軍陣地が描かれている。

その後、新政府軍の軍艦・駒井政五郎が、松前・長州藩兵など土方隊の約5倍である600人の兵を率いて、土方が予想したルートを進軍してきた。

土方の小隊はついに新政府軍と激突した。少数であったため土方隊は敗走するが、これは土方が仕掛けた罠であった。
わざと負けることで敵兵らが進軍してくるように仕向けたのである。

土方は敵が侵攻してくる一本道を挟み込むように、その両側の高台に角度のついた胸壁を13箇所構築して待ち構えていた。

明治2年4月13日、新政府軍は天狗山に陣を敷いた後、土方がいる台場山本陣に対して攻撃を開始する。
土方ら旧幕府軍は胸壁を盾にし、壕に身を隠しながらゲリラ的に反撃を繰り返した。

ここから新政府軍・旧幕府軍が入り乱れた壮絶な撃ち合いが展開される。

土方のゲリラ戦に苦戦する新政府軍だったが、兵の数で勝る新政府軍は根本から弾丸を装填する最新式のスナイドル銃を装備し、次々と兵を入れ替えて攻撃を繰り返した。

迎え撃つ土方率いる旧幕府軍は、前から弾丸を装填する旧式のエンフィールド銃を装備した衝鋒隊2個小隊と、伝習歩兵隊2個小隊が交替で休憩を取りながら、十字砲火で小銃を撃ち続けた。

土方歳三の最後

画像 : 十字砲火の図 wiki c

5倍もの敵兵に対して、少数の土方の部隊は胸壁を移動しながら敵兵に銃弾を撃ち込み続けた。これは土方がフランスの軍事顧問から習った攻撃だった。

果てしない銃撃戦が続き日没頃から雨が降り出すと、土方隊は弾薬が濡れないように上着を掛けて守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かすなどして戦い続けた。
しかも土方たちが使ったエンフィールド銃は連続して弾丸を発射すると銃身が熱くなり、なんと手で持つことが出来なくなってしまうという問題があった。

土方らは桶に水を準備し、銃身を冷やしながら銃撃を続けたのである。

翌4月14日の朝7時頃、銃弾を打ち尽くした新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退した。
なんとこの戦闘は16時間にも及び、土方ら旧幕府軍は3万5,000発もの弾丸を消費したという。

戦闘が終わったこの日、土方は装備と兵数の差に危険を感じ、報告と援軍要請のために一度五稜郭へ向かっている。

※余談だが、余りに多くの弾丸が発射されたため、現在でも二股口では至る所に当時の弾丸が埋まっているそうである。だがこの場所は埋蔵文化財包蔵地であるため、発掘行為となる地面を掘る行為には届け出が必要となる。

2度目の戦い

土方歳三の最後

画像 : 大野川下二股地区(北海道北斗市) wiki c E97h0017

旧幕府軍が増員されるよりも先に、4月16日には新政府軍の第二陣が江差に上陸した。土方隊が守る二股口方面にも薩摩・水戸藩兵などの援軍が派遣され、しかも弾薬と食糧の補給もされていた。

初戦で大苦戦した新政府軍は、土方隊が守る二股口は堅固で落とすのは容易ではないと気づいた。4月17日、厚沢部から山を越えて内浦湾に抜ける道を造って兵と鉄砲・弾薬を送り込み、旧幕府軍の背後から二股口を攻める作戦を考えたが、山道を切り拓く作業に手間取る。

新政府軍が道を造っている間に、旧幕府軍には滝川充太郎が率いる伝習士官隊2個小隊が増強された。

4月23日、福山藩兵が警備していた新政府軍の天狗山陣地に旧幕府軍の偵察小隊が近づいたため、2度目の大規模な戦闘が開始する。

余りの過酷な戦いに土方隊の兵の中には逃げ出そうとする者も現れたが、土方は「逃げだす者はこの場で斬る」と言って鬼の副長の一面を見せたという。

また、新政府軍は鈴を鳴らして包囲したと思わせるような戦術をとったため、土方隊の将兵が動揺した。しかし土方は「本当に包囲するなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下たちを落ち着かせた。

新政府軍がどの方角から攻撃しても、土方の造った胸壁が堅固で突破は困難であった。新政府軍は急峻な崖をよじ登って旧幕府軍の左手の山から小銃を打ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる。

日が変わった4月24日未明、滝川充太郎が率いる伝習士官隊が新政府軍の陣地に突破を敢行する。

この不意を突いた攻撃に新政府軍は大混乱に陥り、自軍の敗走を食い止めようとした新政府軍の軍艦・駒井政五郎は銃弾を受けて戦死した。

すると一気に新政府軍の士気は下がった。新政府軍はその後も奮闘したが指揮官を失った大きな穴を埋めることが出来ず、4月25日未明、遂に二股口突破を断念した。

2度に渡った兵数の圧倒的不利な「二股口の戦い」はこうして終焉したのである。

しかし土方隊が二股口で敵の進軍を食い止めていた間に、松前ルートと木古内ルートが新政府軍に突破されてしまい、4月29日には矢不来ルートも突破されてしまう。

結局、唯一残った土方隊の二股口の守備軍は退路を絶たれ包囲される危険性が生じたため、やむなく土方隊は五稜郭に撤退した。

土方歳三の最後

土方歳三の最後

画像 : 土方歳三像(函館市五稜郭内)wiki c 上田隼人

約2週間にも渡った圧倒的に不利な「二股口の戦い」は、土方率いる少人数の旧幕府軍の勝利に終わった。

この戦いにより土方は「新選組の鬼の副長」から近代戦の指揮官として新政府軍を更に恐れさせたのである。

激戦の中、土方は酒を携えそれぞれの胸壁を回り「今日の敵の相手なんざぁ、日々の戦をくぐって来たお前たちから見れば、子供の遊びみてぇなもんだろう。さぁ飲んでくれ!ただ酔いつぶれて戦が出来なかったら一大事だから、すまんが一杯ずつだけだ」と言って兵士たちに酒を振舞ったという。

そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、土方は味方を救うためにわずかな兵で出陣した。

最後については諸説あるが、激戦の中で腹部に銃弾を受けて落馬し、その後亡くなったとされている。(享年35

奇しくも盟友・近藤勇と同じ享年であった。

その6日後に榎本武揚率いる蝦夷共和国(旧幕府軍)は無条件降伏した。

関連記事 : 前編~「剣豪」から「名指揮官」に変貌した土方歳三 【日本最大の内戦~戊辰戦争】

 

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