かつて日本の刑法には、大逆罪(たいぎゃくざい)という罪があった。
大逆罪とは天皇や皇太子などの皇族に対して、危害を加えようと企てた、もしくは実際に危害を加えた者に適用される罪で、大逆罪を犯したとみなされた囚人は、未遂でも既遂でも例外なく死刑に処せられた。
明治15年から昭和22年までの約65年間に渡り施行されていた大逆罪で、死刑を執行された唯一の女性死刑囚こそが、本記事の主役である管野スガ(かんの すが)である。
明治時代の女性としては珍しく新聞記者や婦人活動家として精力的に活躍したスガは、かの有名な幸徳事件に関与した人物であり、幸徳事件の主要人物とされる思想家・幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の愛人でもあった。
(※幸徳事件とは、明治天皇暗殺を計画したとの容疑で多数の社会主義者,無政府主義者が逮捕・処刑された事件)
記者として働き、女性の権利向上のために活動していたはずのスガは、なぜ幸徳事件で死罪となったのか。
今回は「革命に生きた女性活動家」「男を次々と惑わす妖婦」など、良くも悪くも様々なイメージで語られる管野スガの、波乱万丈な生涯に触れていきたい。
管野スガの生い立ち
管野スガは、明治14年6月7日、大阪の絹笠町で管野義秀の長女として生まれた。
父の義秀は、京都や大阪の裁判官と代言人(当時の弁護士)の職を経て、投機的な鉱山事業を営む実業家となった人物だった。
しかし義秀の事業は失敗続きで生活は苦しく、幼少時のスガは家族と共に各地を放浪する生活を送っていた。スガが12歳の時に実母・のぶは死去し、スガは父と再婚した継母に迫害されながら育った。
継母のスガに対する仕打ちは過激で、スガは継母が差し向けた鉱夫に性的虐待を受けたこともあったという。
19歳の時に、東京深川の商人であった小宮福太郎という男と結婚したが、遊び人で横暴な性格の小宮とは折り合いが悪く、スガは大阪に戻り「海軍に身を置くことになった」という建前で早々に離婚した。
小宮と離婚したスガは、小説家であり新聞記者でもあった宇田川文海(うだがわ ぶんかい)のもとで文学を学ぶようになる。文海は親身かつ熱心にスガの面倒を見たため、愛人説が囁かれるほどであった。
明治35年、スガは21歳の頃に、大阪朝報に記者として入社した。そしてその翌年には私生活に対する反省から、大阪府大阪市の日本組合天満教会で洗礼を受けてキリスト教徒となる。
スガは過去に娼婦を「醜業婦」と呼び批判する記事を書いたことがあったが、キリスト教系の団体で女性の地位向上運動を行う「婦人矯風会」の活動を知って自分のかつての行いを恥じ、それ以降は男女同権を求める運動や廃娼運動に参加するようになった。
婦人運動家から社会主義運動家に転身
明治37年の日露戦争開戦の直前に、師匠の文海が、幸徳秋水(こうとく しゅうすい)や堺利彦が主宰する「非戦論」に賛同したことにスガも影響を受け、大阪で「平民新聞読者会」を結成し、社会主義運動家に転身する。
婦人矯風会の伝手で平民社の堺利彦を訪ねる機会を得たスガは、その紹介により和歌山にいたジャーナリストの毛利柴庵と知り合い交際し始め、そのまま柴庵が主筆であった牟婁新報社に入社し、そこで6歳年下の荒畑寒村(あらはた かんそん)と知り合い同棲するようになる。
柴庵が投獄された折にはスガが牟婁新報社の編集長代理を務めていたが、柴庵の出獄をきっかけに退社し、東京の毎日電報(現在の毎日新聞)に就職して社会部の記者となり、明治40年に共に上京していた寒村と再婚した。
そしてその翌年の明治41年、スガは「赤旗事件」への関与の容疑で、人生初めての投獄を経験する。
赤旗事件とは、東京神田の「錦輝館(きんきかん)」という映画館で行われた、新聞紙条例違反の罪で投獄されていた社会運動家・山口孤剣(やまぐち こけん)の出獄を祝う歓迎会に集まった社会主義者たちの一部が、赤旗を掲げて警官隊を相手に乱闘騒ぎを起こした事件である。
スガは夫の寒村と共に歓迎会に参加していたが、この時既に肺を患っていたため乱闘騒ぎには加わらなかった。そのため、暴力を伴う厳しい聴取を受けたものの、2カ月半ほどで釈放される。
この時スガは無罪となったが、夫の寒村は禁錮1年の実刑を受けることとなった。
幸徳秋水から援助を受けるようになる
スガは赤旗事件をきっかけに、毎日電報を解雇されてしまっていた。
結核を患っていて再就職もままならず、頼りの夫は獄中にいたため、スガは幸徳秋水から経済的な援助を受け、平民社内で療養生活を送るようになる。
スガは秋水のアナキズム思想に共鳴し、秋水の著書『自由思想』発刊にも協力を惜しまなかった。志を同じくする2人が恋愛関係に陥るのに、そう時間はかからなかった。
平民社の社内で夫婦のように暮らすようになった秋水とスガだったが、スガには投獄中の夫・寒村がいて、秋水にも千代子という妻がいた。2人の不倫関係はすぐにスキャンダルとして、秋水と対立していた新聞や雑誌で大きく報じられた。
秋水とスガの関係は、周囲にも様々な影響を与えた。スガは獄中で過ごす寒村に一方的に離縁状を送り付けたため寒村から生涯恨まれることとなり、秋水の妻千代子は夫の公然の不倫関係に追い出されるような形で秋水と離縁した。
2人の関係は秋水と敵対する勢力だけでなく、平民社の同志の間でも問題視され、秋水と周囲の人間の関係悪化の原因になったとも言われている。
幸徳事件の容疑者として逮捕され、大逆罪で死刑に処される
明治43年6月1日、スガは秋水と共に神奈川県湯河原の「天野屋」という旅館に宿泊していた。
この湯河原滞在は秋水の旧友であった小泉という人物に勧められたもので、スガの湯治療養を兼ねていた。
その前年の7月15日に、秋水に目をつけていた官憲による突然の家宅捜索が平民社に入り、結核が悪化して床に伏していたスガは引きずられるように逮捕、連行され、罰金刑のみで釈放されたはものの、平民社は明治43年3月に解散させられていた。
そして天野屋で過ごす2人の元に警察が訪れた。秋水とスガは大逆事件の嫌疑をかけられ、その場で逮捕されたのである。
2人がこの逮捕の後に被告人として起訴された幸徳事件は、明治43年5月に長野で爆発物取締罰則違反容疑で社会主義者が逮捕されたことにより発覚した明治天皇暗殺計画(明科事件)の関与者と、その関与者と繋がりのある人物がでっち上げの罪を着せられ、秋水とスガを含む合計24名に死刑判決が下った事件だ。
幸徳事件の裁判に公平性はなく、暗黒裁判とも称された。
死刑判決が下された24名のうち12名は、明治天皇から恩赦を受けて無期刑となった。この恩赦もまた、政府が印象操作のために行ったという見方もある。
幸徳事件の裁判は非公開で行われ、秋水は裁判終盤に「1人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と述べたという。
スガは明科事件における明治天皇暗殺計画に直接関わった人物として、スガと恋仲にあった秋水は暗殺計画を当然知っていたものとして、明治44年1月18日に大逆罪で死刑が下された。
そして判決から6日後の1月24日に秋水を含む11名の死刑が執行され、その翌日の25日の朝に12番目の死刑囚としてスガの刑が執行された。
スガは29年と約半年の短く色濃い人生を、孤独の中で終えたのである。
辞世の句は「くろがねの 窓にさしいる 日の影の 移るを守り けふも暮らしぬ」であった。
日本における社会主義運動は、幸徳事件の後しばらくの間「冬の時代」に突入することとなった。
変わりつつあるスガに対する評価
女性の解放を訴える婦人活動家として、国家権力を積極的に批判する社会主義活動家として、記者という立場を活かして精力的に活動したスガであったが、後世スガについて語られる時は恋愛遍歴に注目が集まり、活動家としての思想よりも男を惑わす妖婦というイメージばかりが取り沙汰された。
しかし元来スガは、男性から見た理想の女性像である「良妻賢母」という言葉や、「女性は貞節であるべき」という考え方を毛嫌いし、封建的な江戸時代が終わってもなお続いていた理想の女性像を変えようと戦った人物であった。
そもそもスガの妖婦というイメージを主に後世に伝えたのは、獄中にいる際にスガから離縁状を突き付けられた荒畑寒村だ。
寒村は自分を捨てたスガを恨んで殺害まで企てたが、結局実行はできずに秋水たちと疎遠になり、結果的に2人と疎遠になったことで処刑を免れ、スガの処刑後に彼女の妖婦たるイメージを世間に広めたのだ。
秋水を始めとする当時の社会主義者たちは、恋愛に関してかなり自由な考えを持っており、スガに負けず劣らずの恋愛遍歴を重ねていた。「男は良くても女はダメ」という考え方はスガの最も嫌う所であっただろう。しかし死人に口なしで、スガが反論することはかなわなかった。
今日私たちが日本において言論の自由を得て、性差別や弾圧を恐れずに自分の考えや思想を世間に表明できるようになったのは、スガのような活動家たちが権力による弾圧に抵抗し、命を賭して戦ってきた歴史の積み重ねがあるからだ。
最終学歴は小学校卒業というものでありながら、優れた文才と鋭い見識を武器に記者となった管野スガ。
彼女がもし違う時代に生まれていたら、死刑囚としてではなく、別の形で歴史に名を残したのかもしれない。
参考文献
関口 すみ子 (著)『管野スガ再考: 婦人矯風会から大逆事件へ』
絲屋 寿雄 (著)『管野すが: 平民社の婦人革命家像』
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