薩摩藩は4人に一人が武士であり、他藩に比べて生産力が低かった。
そのために、武家の子供たちはある程度の年齢になると様々な仕事に就き、家計の助けをしなくてはいけない。
そして、17歳になった西郷隆盛も初めて公務に就くのである。
西郷、初めての公務
【※肥後直熊筆「西郷隆盛像」】
弘化元年(1844年)、17歳になった西郷は、藩士として初めての公務に就いた。職名は「郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)」という。
現在の税務官のようなもので、郡(地方)を回って農作業を指示し、年貢米の出来高を見積もるという部署の書記係だ。「助」という字があるように、その補佐役だった。
西郷は右腕の負傷で武芸に支障が出て、学問に精を出していたため、読み書きや算盤の扱いに長けているため任命されたのだろう。字が上手いものは書役(事務官)、武芸が得意なものは藩校「演舞館」など、若者らが適材適所に配置された。
この仕事で西郷が補佐した郡奉行は、迫田利済(さこたとしなり)という人だった。清貧を絵に描いたような人物で、家の壁が崩れてもそのままにするような人物である。雨の日に西郷が訪ねたとき、雨漏りがひどいので押入れに入って話をしたという。
迫田の薫陶
迫田は学識もあり、権力に屈しない硬骨漢であった。重税にあえぐ農民たちの窮状を黙視できず、自らの稼ぎで救うこともしばしばで、西郷は彼を慕うようになったようだ。
水害が激しかったある年のこと、藩から「多少の被害があったとしても、今年の年貢の減額は認めない」とのお達しがあった。
そのとき、迫田は地方巡察の途中だったが、すぐに鹿児島の役所へ帰り、掛け合ったが聞き入れられない。憤った迫田は「虫よ虫よ、五ふし草の根を断つな。断たば、おのれも共に枯れなん」と、奉行所の壁に書き殴って辞職した。この草とは農民、虫とは役人のことである。
西郷は迫田を通じて民の生活を理解し、また政治や役人の在り方に疑問を覚えるようになった。
後進への教え
迫田との出会い以来、西郷は農業の振興に力を入れ、建言書(上役への申立書)を書いて藩に提出するなど農政に深い関心を持つ。
後年の「敬天愛人」という思想の根源はこうして芽生えたのだろう。
3年後、20歳を迎えた西郷は、領内にできた橋の工事の経費が予算を大幅に上回り、責任者が辞職する騒ぎに遭遇する。西郷は「この責任は自分が持つ」と述べ、責任者を慰労して場をおさめた。同じ年、西郷は郷中(薩摩独自の教育機関)の二才頭(にせがしら)という役に就いた。
のちに明治の元勲となる弟子たちに、己の経験、そこから学んだ教訓も説いて聞かせたに違いない。こうした隆盛の言動は、やがて藩の上役をも動かすようになっていくのである。
鎖国の限界
西郷が存在感を発揮し始めていた中、時代は風雲急を告げていた。江戸幕府が長年保ってきた「鎖国」体制が限界を迎えようとしていたのである。
18世紀後半から、ロシア・イギリス・フランス・アメリカの艦船が来航していたが、幕府は交易を拒否し、近付く船は「異国船打ち払い令」により追いやっていた。しかし、それがもはや通用しなくなっていたのだ。
その大きな要因が1840年に起きた「アヘン戦争」である。麻薬(アヘン)の密貿易で利益を上げていたイギリスが、清(中国)のとったアヘンの輸入禁止措置に胃を唱え、攻撃したのである。清では大量輸入するアヘンにより中毒者が激増していた。
アヘン戦争の余波
【※アヘン戦争においてイギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵】
清はこれに対抗するが、各地で艦隊が破られて制海権を喪失。沿岸地域を占領され、北京を包囲された。
1842年、清は南京条約で香港の割譲、英国への多額の賠償金の支払いを認めることになる。東洋の大国・清がイギリス軍に大敗した報はすぐに日本にも届いた。
江戸幕府は「異国船打ち払い令」を廃止し、天保13年(1842年)には遭難した外国船の上陸を認める「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発布。これまでの鎖国体制の見直しを迫られるようになったのである。さらに、1844年にはオランダ国王から開国を勧める警告文が幕府に届く。
「視聴草(みさきぐさ)」という雑録には、その特使や船が描かれている。また「海国図志」は、清の学者、魏源(ぎげん)が欧米の脅威と軍備の重要性を訴えた書であり、これらの資料が日本の知識人たちを動かしていくようになる。
最後に
歴史の面白さは、出会いのタイミングである。西郷が迫田の下で働くことがなかったら、彼の思想は違っていたかもしれない。
迫田という歴史に名を残さない偉人に出会えたことは、西郷にとって幸運である。さらにアヘン戦争のタイミングが違っていたら西郷の運命も変わっていただろう。
つくづく歴史の面白さを感じる。
さて、この窮地に『西郷どん』はどのように関わってくるのだろうか?
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