約260間続いた江戸時代において、最盛期といわれる元禄時代。
その時代に君臨したのが5代将軍・徳川綱吉だった。
その綱吉が発令したのが、天下の悪法と称される「生類憐みの令」だ。日本史において綱吉の歴史的評価を貶めたこの法令は、本当に悪法だったのか。
2回にわたり検証する今回の[後編]では、「生類憐みの令」を元禄という時代の社会的背景から探っていこう。
※[前編]「生類憐れみの令」は本当に悪法だったのか? 徳川綱吉の思想と社会的背景から検証
https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/102990/
都市部にあふれる野犬公害への対策

画像:中野お囲い跡の犬の像
元禄年間の江戸の人口は、約80万人とされ、世界的に見ても大都市であった。
このように人間が集中する都市部には、人間が生み出す廃棄物がたくさんあり、これが野犬たちにとっては絶好の餌となった。
今の日本では、よほどの山奥でない限り野犬の姿を見ることはできない。ただ、半世紀ほど前には東京でも野犬が徘徊し、威嚇されたり噛まれたりする被害が生じていた。
江戸時代においては、幕末が一番野犬の数が多かったといわれるが、元禄時代もかなりの数の野犬が餌を求めて町中をさまよっていた。
そのため通行人が襲われたり、噛まれたりするだけでなく、捨て子が食べられるという実害が生じていた。また何よりも恐ろしかったのは、当時は犬に嚙まれることは、狂犬病の危険に晒されることだった。

画像:中野犬小屋の図。元禄9年 wiki.c
こうした犬たちを収容するため「生類憐みの令」により、御囲(おかこい)、御犬囲(おいぬかこい)と呼ばれた犬小屋が各地に設置された。
特に中野の犬小屋は中野御用御屋敷とも呼ばれ、16万坪の広大な敷地に野犬・飼い犬を含め10万頭が収容されたという。犬小屋の犬たちは幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた“御犬さま”となったのである。
かつてはこの犬小屋設置に対し、「犬を溺愛した綱吉が、江戸中の野良犬を養うよう強要した政策」とされてきた。
しかし、近年では犬小屋は、犬同士や犬と人とのトラブルを回避するための収容施設であり、野犬公害を規制しようとするものであったとの解釈が主流となっている。
ケガレから捨てられる牛馬の保護・確保

画像:馬借(石山寺縁起絵巻)
「生類憐れみの令」が発せられる前まで、病気にかかった牛や馬の多くは捨てられていた。
中世以前の牛馬は、単なる畜生・四つ足ではなく、人の生活を支える一種の聖獣とみられていたが、近世に入るとこのような感覚は失われていく。
実は、病気になると捨てられるのは牛馬だけではなかった。
平安時代以降、京都などの都市に天皇・貴族だけでなく多種多様な人々が暮らし、出入りするようになると、“ケガレ(穢れ)”という大きな問題が生じてきた。
“ケガレ”とは具合的にいえば、“死”を指し、これが伝染すると信じられていたのだ。
この問題については別の機会に詳しく述べようと思うが、科学の発達していない時代では、“ケガレ”は恐怖以外の何ものでもなく、人々はこれを排除することに懸命になった。
こうして天皇・貴族など一部の上流階級を除けば、人が病気になり死が近づくと、生きているうちに河原や道に躊躇なく捨てられた。
河原や道は開かれた空間であるので、こうした場所では、“ケガレ”は伝染しないと考えられたのだ。

画像:旧河本家本『紙本著色餓鬼草紙』wiki.c
つまり、瀕死の人間や死体が道や河原に転がっていても、穢れることにはならなかった。
京都において、鴨川の河原が処刑場になったのもこのような理由からである。
こうして、かつては聖獣視されていた牛馬は、病気にかかると簡単に捨てられ、死に至るまで山野をさまよっていたのだ。
しかし、江戸時代になると日本橋を起点にした五街道などが整備され、交通・運送手段としての牛馬の重要性が高まった。
こうして「生類憐みの令」の一環として 1687(貞享4)年に、“捨て馬の禁止”が発布され、牛も含む失踪馬・迷い馬への保護とともに牛馬へのいたわりが制度化されたのだ。
儒教の理念に基づいた文治主義の社会浸透

画像 : 徳川家康肖像画 public domain
江戸幕府は、初代徳川家康から3代家光までの約50年間は、諸大名や朝廷・貴族を武力で威圧する武断政治を行っていた。
2代秀忠が、大名たちに規範を示す武家諸法度を発布。さらに3代家光が、その寛永令を発布し参勤交代制を追加した。
この法令を基に幕府は大名たちに圧力をかけ、制度に違反すれば、領地没収の改易・領地を減らす減封・国替えの転封などの処分を断行した。
この結果、江戸初期には多くの大名が処分され、主家を失った“牢人”や、不法行為を繰り返す“かぶき(傾奇)者”と呼ばれる人々が増加。
彼らが集まる江戸などの都市部を中心に治安が悪化し、社会不安が増大したのである。

画像:出雲阿国が扮した傾奇者 wiki.c
元禄時代以前は、まだまだ戦国時代の荒々しい風潮が残っていた。
社会に不満を持つ一部の牢人・かぶき者が、公然と人を斬り殺したり、傷つけたりすることが頻繁に起きた。
中でも異様な風体をしたかぶき者たちは、罪のない人々を脅し金品を要求。それを拒否されると暴れ、果ては殺傷をも引き起こしたのだ。
こうした社会状況の中、1651(慶安4)年に由井正雪らが、幕府に対する反乱計画を立てた「慶安の変」が起きた。
この事件を契機に、幕府は弾圧的な武断政治を廃止し、儒学や仏教の定義に基づいた文治政治へ切り替えていった。
綱吉は、元禄の世にはもはや戦国の風潮など必要がないと考えたのであろう。家康から家光までの歴代将軍が好んだ鷹狩を廃止した。
鷹狩は単なる狩猟ではなく、軍事訓練的な要素も持ち合わせていたからである。
暴走してしまった平和・文明化を推進する法令

画像:徳川綱吉像(土佐光起筆 徳川美術館蔵)wiki c M.Denko
兄の4代家綱から将軍職を引継いだ綱吉は、儒教の思想をもとに文治政治の社会浸透をはかった。
「生類憐みの令」はその目的を推進するための法令で、戦国の荒々しい気風を一掃するとともに、人々の慈悲の心を育んでいこうとした。
こうして考えると「生類憐れみの令」は、単なる動物愛護のための法令ではない。人間を含むあらゆる生き物に対する扱いが厳しかった当時の日本社会において、その状況を是正しようとする意図があったと考えられる。
しかし、違反した者たちへの処罰は余りに過剰であった。
そのため武士から庶民にいたるまで、人々の大きな不満を招いてしまい、綱吉は人々から“犬公方”と嘲笑された。

画像:柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)wiki.c
綱吉は、儒教に対して余りにも真っすぐ過ぎた。
その教えの通り「自らは頂点に立つ者であり、何者も自分に対して非を唱えることはできない」と確信していたのではないだろうか。
おそらくは、柳沢吉保をはじめとする側近たちは、「生類憐みの令」に関連する法令が出る度に、綱吉に対して何らかの諫言をしただろう。
しかし、絶対的な権力者である綱吉には、その声は届かなかった。
「生類憐みの令」は、その基本概念は決して悪法ではなく、戦国の遺風を断ち切り、社会の平和・文明化を徹底することだった。
しかし、そうした綱吉の意図に反して「生類憐みの令」は年とともに頻発・強化され、まるでモンスターのように暴走し、結果的に人々の生活を圧迫するものになってしまったのである。
参考 : 『日本大百科全書』『徳川実記』他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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