「水戸黄門」という名を聞いて、どのような人物像を思い浮かべるだろうか。
世間一般の人が考えるであろう「悪事や悪人を決して許さない正義の人」「尊い身分を笠に着ず弱者に優しい好好爺」などのイメージは、時代劇や講談で人気を博した創作話に由来するものだ。

画像:水戸徳川博物館所蔵の狩野常信筆による徳川光圀像 public domain
水戸黄門のモデルとなった常陸水戸藩第2代藩主・徳川光圀もまた、日本の文化と学問の発展にも寄与した偉人として知られている。
しかし、実は若い頃はとんでもない「不良少年」だったばかりか、藩主になった後も数々の常識外れな行動をしていたという逸話が多い。
今回は、堕胎されかけた庶子の立場から水戸徳川家当主になった、「水戸黄門」のモデル・徳川光圀の波乱の生い立ちや破天荒な逸話に触れていきたい。
目次
生まれる前に父に殺されかけた光圀

水戸黄門神社(義公生誕地) public domain
光圀がこの世に生を受けたのは、1628年7月11日のことだ。
父は徳川家康の十一男であり、常陸水戸藩初代藩主の徳川頼房、母は佐野藩士・谷重則の長女・久子(後の久昌院)であった。
久子はもとは頼房の奥向きを務める侍女であり、正式な側室ではなかったが、やがて寵愛を受けて懐妊するようになる。
光圀の誕生に先立つ6年前にも、久子は頼房の子・松平頼重を出産していた。
この頃には高瀬局と呼ばれるようになっていたが、正規の側室の扱いではなかった。
実は頼房は、頼重の時も光圀の時も、妊娠した久子の身を重臣の三木之次(みき ゆきつぐ)に預けた上で、堕胎させるように命じている。
頼房が堕胎命令を出した真の理由は不明だが、一説には大名の一夫一婦制を推進する江戸幕府の方針に、違反する可能性があったことが原因とも考えられている。
『義公遺事』によれば、光圀自身はこう回想している。
母・久子が懐妊した際、母の実母である養心院や、すでに頼房の寵愛を受けていた側室のお勝の方が激しく憤慨したことが原因となり、さらに久子自身に十分な後ろ盾がなかったため、父は堕胎を命じたのではないか、と考えていたようである。
しかし三木之次の妻であり、頼房の乳母でもあった武佐(むさ)は、久子の最初の妊娠の際に密かに久子を匿った。
江戸麹町にあった三木家の別邸で出産させ、生まれた頼重は、まず三木夫妻のもとで養育され、その後、公卿・滋野井季吉に預けられている。
続く光圀の出産時も、武佐は同じように久子を匿い、今度は水戸城下にあった三木家の本邸で出産させた。
つまり光圀は、三木夫妻の孫として密かに育てられたのである。
幼児時代に常陸水戸藩の世嗣となる

画像:徳川頼房の肖像 public domain
三木家で密かに育てられていた光圀が、公に頼房の子として認められ、水戸城に迎え入れられたのは1632年のことである。
この年は、大御所として幕政の実権を握っていた徳川秀忠が死去し、頼房を実兄以上に信頼していた第3代将軍・家光の親政が本格的に始まった年でもあった。
父との正式な対面を果たした光圀は、まもなく常陸水戸藩の世嗣に定められ、江戸小石川の水戸藩邸で世子教育を受けることになる。
8歳の頃には早くも元服し、家光から偏諱を与えられて「光国」と名乗るようになった。(※後に「光圀」と改める)
その年には、水戸徳川家の最古参家臣であり、三木夫妻の娘婿でもある伊藤友玄を筆頭に、3人の傅役(教育係)が付けられた。
さらに、最上義光の四男で水戸藩家老職に就いていた山野辺義忠からも教えを受けることとなった。
幼い光圀に施された世子教育はスパルタで、現代であれば児童虐待と見なされかねない苛烈なものだったと伝わる。
「夜中にひとりで罪人の首を持ち帰る」「遺体や汚物が浮かぶ川を泳いで渡る」など、胆力を養うために極端な試練が課せられたという。
こうした過酷な教育を、持ち前の胆力で乗り越えていった光圀だったが、一方で、母を同じくする兄を差し置いて世嗣に選ばれた自身の立場に、複雑な感情も抱いていた。
やがて思春期を迎える頃には、大人たちも手を焼くほど素行が荒れ、周囲が抑えきれないほどにグレてしまっていたのだ。
不良少年になった光圀の非行

画像:1863年(文久3年)の水戸藩小石川邸と後楽園(国立国会図書館蔵『御上京道記』)public domain
ここからは、若き日の光圀にまつわる「非行伝説」とされる数々の逸話を紹介していこう。
お供の助さん格さんではなく不良仲間を引き連れて、派手な服装に身を包んで江戸の町をぶらつくようになった光圀は、ある時、仲間とともに町内で開催されていた相撲大会に乱入した。
腕っぷしと負けん気の強さを誇っていたはずの光圀一行だったが、仲間たちは相撲で次々と負けてしまい、それに大いに腹を立てた光圀は刀を振り回して大暴れしたという。
さらに10代中盤にして吉原遊郭に入り浸って女遊びを覚え、屋敷に戻ればまだ幼い異母弟たちに対して、女の悦ばせ方を得意げに教えたりもした。
少年時代の光圀の問題行動の中でも、特に異彩を放っているのが「辻斬り」だ。
武士が無実の人間を刀で斬りつける行為は、光圀が生まれる以前の1602年から、幕府により厳しく禁じられ死刑に値する罪とされていた。
だが晩年の光圀の侍医であった井上玄桐は、本人から聞いた話として『玄桐筆記』に光圀の辻斬りの話を記している。
いつものように江戸の町を肩で風を切って出歩いていた光圀一行は、夜更けに屋敷に帰ろうとする途中で、休憩するために浅草の堂に寄った。
そこで仲間が「堂の縁の下で寝ている奴を引きずり出して、試し斬りをしてみよう」と言い出したのだ。
光圀は「罪のない人間を斬るわけにはいかない」と断ったが、仲間は臆病者と光圀を嘲った。
武士のプライドを傷つけられて挑発に乗った光圀は、堂の下から4、5人の人間を引きずり出し、嫌々ながらもそのうちの1人を斬り殺してしまったのだ。
光圀はこの出来事以降、辻斬りを勧めてきた仲間とは絶交したという。
18歳で『史記』に出会い勉学に目覚める

画像:『史記』に影響された光圀が編纂を開始した『大日本史』(弘道館所蔵) wiki c Papakuro
光圀の荒れっぷりには、家臣たちも大いに悩まされた。
傳役の1人である小野言員は、光圀が16、17歳の時に『小野諫草』という諫言の書を著し、光圀をいさめたという。
父の頼房も、熱海に湯治に行く際に光圀を連れていき、簡単には逃げ出せない旅先で厳しく叱責したが、反抗期真っ最中の光圀少年にとってはそんなものはどこ吹く風で、非行を一切改めようとはしなかった。
しかし光圀が18歳の時、転機が訪れた。
古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』の「伯夷伝(はくいでん)」を読み、その内容に大きな感銘を受けたのだ。
伯夷伝は、殷代末期の孤竹国の公子兄弟をめぐる故事を伝えている。
孤竹国君主の三男である叔斉(しゅくせい)は、長男の伯夷(はくい)を差し置いて、父の遺言によって位を譲られることになった。
兄の伯夷は、父の遺言に従って弟の叔斉に位を継がせようとしたが、叔斉は弟である自分が兄に先んじるわけにはいかないと、伯夷に位を継いでもらうことを願った。
しかし伯夷は、父の遺言を守るために国を捨てて出奔してしまった。
すると叔斉も、兄を追いかけて国を出て行ってしまったのだ。
結局、位は残された次男が継ぐことになった。

画像 : 伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)public domain
儒教で聖人とされる、この高潔な兄弟の姿に、光圀は自分自身の境遇を重ね合わせた。
父・頼房の三男として生まれながら、長男の兄・頼重を差し置いて世嗣となった自らの立場と重ねたのである(なお、次男は光圀の誕生前に夭折している)。
そしてそれからの光圀は、愚行を改めて悪い仲間とは縁を切り、将来は兄の子に跡を継がせると心に決め、人が変わったように勉学に打ち込むようになっていったのだ。
1657年、明暦の大火をきっかけに、光圀は後世に残る日本の歴史書を編纂しようと決意する。
移り住んだ駒込別邸に史局を設け、当初『国史』などとも呼ばれた『大日本史』の編纂事業を始めた。
父と同じく「妊娠した妾の堕胎」を命じる

画像:高松城 艮櫓(丑寅櫓)(旧太鼓櫓跡・重要文化財指定)wiki c 663highland
「伯夷伝」との出会いで学問に目覚め行いを改めた光圀だったが、元々の激しい性格がそれで矯正されたわけではなかった。
1652年頃、光圀の側仕えをしていた侍女・弥智(いやち)が、光圀の子供を身籠ってしまう。
正室を迎える前であり、さらには18歳の時から兄の子を跡継ぎとすることを心に決めていた光圀にとって、弥智の妊娠は非常に都合が悪かった。
そこで光圀は、身重の弥智を家臣の伊藤友玄に預けたが、その際に弥智の堕胎を命じたとも伝わっている。
奇しくも、光圀は父・頼房と同じ失敗を犯し、同じ行動を取ることになった。
だが、生まれてくる子もまた、かつての頼重や光圀自身と同じように、秘かに匿われる境遇に置かれることになる。
家臣の伊藤友玄は、かつての三木夫妻と同じように、頼重と相談したうえで弥智を秘密裏に匿い、江戸小石川の自邸で出産させた。
生まれた男子は頼重のもとに養子として迎えられ、高松城で育てられた。
そして後に、讃岐国高松藩の第2代藩主・松平頼常となる。
正式に認知された子はこの頼常のみであり、後に光圀は水戸徳川家の跡継ぎとして、兄・頼重の長男と次男を養嗣子に迎えている。
生涯破天荒だった光圀

画像:湊川神社に現存する徳川光圀による楠公墓所 wiki c KishujiRapid
1661年8月、父・頼房の死去により光圀は常陸水戸藩の藩主となった。
就任後は領内の水道整備や寺社改革に力を注ぎ、とくに神仏分離を徹底する寺社政策を断行している。
一方で、時の将軍・徳川綱吉が推し進めた「生類憐みの令」には従わず、堂々と獣肉を食べていたという。
豚肉で出汁をとったうどんを得意料理として客人や家臣にふるまうこともあり、綱吉に野犬数十匹の毛皮を献上したという俗説まで生まれている。
さらに蝦夷地への関心も強く、藩で巨船「快風丸」を建造させ、幕府の正式な許可を得ないまま三度にわたる探検を命じた。
最後となった三度目の航海では石狩まで到達し、大量の塩鮭や熊、ラッコ、トドの皮などを持ち帰ったと伝えられている。
光圀が編纂を始めた『大日本史』は、後世の歴史学に大きな影響を与えることになるが、その一方で膨大な費用が水戸藩の財政を圧迫し、領民や家臣たちは光圀の死後も長く重い負担に苦しむことになった。
隠居後も活動は続き、古墳の発掘調査を行わせたほか、天皇の忠臣・楠木正成を顕彰する石碑を湊川に建立させている。
さらに隠居後に江戸へ上った際には、小石川藩邸で催された能の席で家老の藤井紋太夫を呼び出し、説教の末に刺殺し、そのまま能の舞台に出ていったという逸話も残されている。
『史記』との出会いを契機に藩主としての自覚は育ったものの、光圀の破天荒な気質は、生涯を通じて変わることはなかったようだ。
“水戸黄門”人気は政治と関連していた?

画像:光圀が隠棲した西山荘西山御殿(正面)と守護宅(右奥)、御文庫(左) wiki c Σ64
「水戸黄門」という名が広く知られるようになったのは、幕末期のことである。
講談『水戸黄門漫遊記』が人気を集め、以後もさまざまな作品で描かれるようになっていった。
一方、光圀が主導した『大日本史』の編纂事業を通じて形成された「水戸学」は、尊皇攘夷思想に影響を与え、討幕運動や明治維新の思想的原動力となった。
実際、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父は、光圀から七代後の常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭である。
「天下の副将軍こと水戸黄門」を主人公とする講談が庶民の人気を博した背景には、慶喜を将軍に推す斉昭の政治的意図があったという説もある。
フィクションの「水戸黄門」では、隠居後に家臣を従えて諸国を巡る姿が描かれているが、実際の光圀は隠居後、久慈郡の西山荘に籠もり、『大日本史』の編纂に心血を注ぎ続けた。そのまま同地で最期を迎えている。
伝説の「水戸黄門」とは異なり、常陸の山奥で余生を過ごした光圀であったが、幕末期以後の日本に大きな影響を与えた人物であることは間違いないと言えるだろう。
参考 :
泉秀樹 (著)『水戸黄門の素顔 漫遊記の虚と実』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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