600石の旗本から大名、そして老中へと一代で登りつめた田沼意次(おきつぐ)。
大河ドラマ『べらぼう』の描写にも見られるように、彼は後世しばしば悪名高い政治家として語られてきた。
当時の落書や風聞では「賄賂政治家」「成り上がり者」と揶揄され、やがて権力の座を追われて失意のうちに没する。
だが、なぜ田沼意次は、そこまでの汚名を背負うことになったのか。
今回は、彼の生涯と政治をたどり、悪評の実像と転落の真相を考察していく。
異例の大出世

画像:田沼意次の肖像画 public domain
享保4(1719)年、田沼意次は旗本・田沼意行の長男として、江戸本郷弓町の屋敷に生まれた。
父・意行は、徳川吉宗の将軍就任にともなって紀州藩から幕臣に取り立てられた元藩士で、吉宗の信任厚く勘定方に属した人物であった。
享保19(1734)年3月、意次は西丸(世嗣)徳川家重の小姓に抜擢された。
翌享保20(1735)年、父の死により家督を継ぎ、遺跡600石の旗本となる。
延享2(1745)年、吉宗が将軍職を家重に譲ると、意次はそのまま本丸勤めとなり、翌年には小姓組番頭格に進んだ。
ここから彼の出世が始まる。
宝暦元(1751)年、御側御用取次に任じられ、将軍と幕府諸役人をつなぐ要職に就いた。
この任命を機に、意次は政治に実質的な発言力を持つようになる。
そして宝暦8(1758)年、美濃郡上藩で起きた百姓一揆がきっかけとなり、幕府内部を巻き込んだ一大疑獄事件が発生する。
藩主・金森頼錦の苛政を訴えた農民たちの訴願が江戸にまで達し、幕府は評定所で大規模な審理を行うことになった。
この裁定に、御側御用取次であった田沼意次も列座を命じられる。
意次は冷静かつ公平な意見を述べ、将軍家重の信任をいっそう深めた。
その結果、事件に関与していた老中や若年寄は罷免され、郡上藩主・金森家は改易となった。
同年、意次は御側御用取次から一万石の大名に取り立てられ、幕政の中枢に名を連ねることとなる。
幕政を掌握する

画像:徳川家治の肖像画 public domain
宝暦10(1760)年、病死した家重に代わって、息子の家治(いえはる)が10代将軍に就任した。
それにともない、意次は御側御用取次を留任する。
代替わりがあると将軍の側近も入れ替わるのが通例であったが、家重は「意次は正直者で律儀であるから、引き続き召し使うように」と家治に言い残していたのである。
その後も家治のもとで出世を重ねた意次は、明和4(1767)年に側用人となり、明和9(1772)年には側用人を兼任したまま老中に就任した。
側用人とは、将軍の政務の相談にあずかるとともに、将軍と老中の連絡を取り持つ役割であった。
こうして意次は、将軍の判断を補佐する役割と、幕府の政策を担う役割を同時に務めることになったのである。
意次の上には松平武元をはじめとする老中首座がいたが、彼らも意次の意向を無視することはできなかった。
老中以下の役人は、政治について直接将軍に意見を述べることができない。
結果、他の役人は何をするにしても、まず意次に話を持っていかざるを得なくなる。
意次が幕政を掌握するのは必然であった。
田沼の政治と負の側面

画像:印旛沼 public domain
その頃、幕府の政治は大きな困難に直面していた。元禄以来の慢性化した財政赤字である。
緊縮政策と新田開発、そして年貢率の引き上げを中心とした「享保の改革」によって、幕府の財政は一時は持ち直したかに見えた。
だが、それもすぐに頭打ちになる。
重税に反発した農民たちによって、各地で一揆や耕作地の放棄が頻発したからである。
結果として農村は荒廃し、幕府は年貢以外の収入源を模索せざるを得なくなった。
幕政の中心にいた意次は、享保から続いていた緊縮財政政策を継承し、経費削減に取り組んだ。
同時に、発展をはじめていた商工業や金融といった分野に目をつける。
商工業者に「株仲間」を結成させ営業上の独占を公認する代わりに、運上や冥加金といった課税を強化した。
また、財政支出補填のための新貨の鋳造、印旛沼や蝦夷地の開拓など、さまざまな政策や事業を立ち上げる。
民間からは、新たな商機や利益追求の場を求めて、幕府にさまざまな献策が行われるようになった。
それは当時としてはかなり大胆な発想や構想の政策が生まれる土壌となったが、幕府の御用を請け負いたい業者、また民間と役人たちとの間に癒着が生まれる原因ともなっていく。
田沼政治の代名詞となっている「賄賂の横行」が始まっていた。
課税が強化されたことによる民衆の反発は次第に強まり、大胆な政策や大規模な事業もなかなか結果には結びつかない。
権勢を強めていく意次であったが、その前途には暗雲が立ち込めようとしていた。
絶頂からの大転落

画像:浅間山の天明大噴火 public domain
天明2(1782)年より冷害による凶作が深刻化し、農作物が大打撃を受け米騒動が勃発した。
天明3(1783)年、幕府は江戸の商人に向けて米価や物価の引き下げを命じたが、十分な効果は得られなかった。
天明4(1784)年、江戸近郊の村々でも米価の高騰を原因とした一揆が起き、江戸に不穏な空気が立ち込めるなか、意次にとって痛恨の出来事が起きる。
息子である若年寄・田沼意知(おきとも)の刺殺事件である。
自分の後継者となるはずだった息子を失った意次に対し、世間からの批判や反感がいっせいに吹き出した。
事件の下手人である佐野政言の墓所には大勢の人々が列をなしたのと対照的に、田沼意知の葬列には白昼堂々と民衆が石を投げたという。
水面下で進んでいた意次の政治への不満が、まさに目に見える現象となって現れたのである。
また、天明6(1786)年には、田沼政権が打ち出した政策がことごとく中止の憂き目を見た。
7月に関東を襲った洪水がきっかけで印旛沼干拓計画は頓挫し、8月には全国を対象とした御用金政策が撤回された。
御用金政策とは、具体的にいうと以下のような政策であった。
・日本全国の百姓や地主、または寺社に、5年間毎年御用金を徴収する。
・集めた御用金に幕府が資金を加え、大坂に『貸金会所』を設ける。
・会所は融資を希望する大名に、市中の金利より低い利息で貸し付ける。
・5年後には、分配した利息を上乗せして出資者に返金する。
しかし、米価の高騰によって生活が脅かされているなか、新たに金の徴収を求められた民衆は強く反発した。
幕府も政策の失敗を認めざるを得ず、意次の政治責任を問う声が相次ぐ。
もはや青息吐息となった田沼政権であるが、悪いことには悪いことが重なる。
同じ頃、意次の権力の源泉ともいえる将軍家治が病に倒れたのである。
追い打ちをかけるように、意次の老中辞任を求める声が起きた。
圧力に抵抗しきれなくなった意次が老中を辞任すると、田沼家と姻戚関係にあった諸大名は相次いで離縁や義絶を叩きつけた。
孤立無援となった意次は、5万7千石あった石高のうち2万石を没収され、謹慎を命じられる。
しかし、意次の転落はまだ終わらない。

画像 : 松平定信 public domain
政敵であった松平定信の老中就任がきっかけとなって、田沼家にはさらなる処分が下された。
残った領地のうち2万7000石を没収された後、居城であった相良城も打ち壊されてしまったのである。
田沼家はかろうじて大名として存続を許されたが、意次の権勢はもはや影も形もなくなっていた。
天明8(1788)年7月、意次は失意のうちに江戸で死去した。
田沼意次の後悔

画像 : 田沼意次の肖像画(勝林寺蔵)public domain
天明7(1787)年9月、失脚した意次は、家来たちを集め、自ら大名としての田沼家の反省と今後の方針を語りかけた。
要点をまとめると、以下のような内容である。
・藩主である自分が幕府の政治に専念していたので、藩政を顧みる時間がなかった。
・そのため、本来なら大名家に備わっているべき規則や家法も田沼家には存在しなかった。
・万事鷹揚にやってきたが、これからは一同に質素倹約を命じ、他の大名家と同じように規則や家法を作る。
意次は率直に「田沼家はまともな大名家ではなかった、もう少し自分の家を顧みればよかった」と後悔の念を口にしている。
大名家としての規則や家法がないということは、意次の周囲には武士としての規律や規範に欠ける者が大勢いた、ということでもある。
例えば、田沼家の家老である井上寛司や三浦庄司も、土民や百姓の出自であるといわれている。
また、意知を刺殺した佐野政言が書いたとされる斬奸状には、田沼家の罪状のひとつとして「他の大名家や旗本家を家法違反で追放されたような素行の悪い者たちを、家臣として召し抱えている」という内容が書かれている。
最初に書いたように、『賄賂政治家』は田沼意次の代名詞となっている。意次自身が清廉潔白であったとは言い切れない。
だが、賄賂や汚職といった不正行為に手を染めていたのは意次本人というより田沼家全体がそうであった、といえるのではないだろうか。
正式な武士の出自ではない者たちや、他の家から追い出されるような武士たちで構成されている組織に、不正がないはずがないのである。
田沼意次のイメージは近年再評価が進み、彼の悪評は政敵であった松平定信などによって誇張されている、ともいわれている。
だが、意次自身が反省の弁を口にしているあたり、やはり彼の周辺には汚職や賄賂が横行する余地が十分にあったのだろう。
参考資料 :
『田沼意次』藤田覚著 ミネルヴァ書房
『勘定奉行の江戸時代』藤田覚著 ちくま新書
『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』安藤優一郎 PHP新書
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部























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