江戸時代

吉原遊郭の歴史と仕組み 「江戸の異世界空間だった」

吉原遊郭とは

吉原遊郭の歴史と仕組み

画像 : 吉原の遊女(明治時代)wiki c Kusakabe Kimbei

吉原遊郭とは、江戸幕府によって公認された唯一の遊郭であり、始めは日本橋近くにあったが、明暦の大火後に浅草寺裏の日本堤に移転した。

その妖艶な世界は映画やアニメの舞台となり注目されているが、実は吉原は男性だけの夜の世界ではなく、女性の観光客も訪れたほど賑わいがあった場所であった。

数えきれない女性たちが生きた吉原遊郭の歴史の真相について、前編と後編に分けて解説する。

吉原遊郭の歴史

天正18年に豊臣秀吉の命で徳川家康が江戸に入り、その後、家康は征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開き、都市機能の整備を急ピッチで進めた。

そのため関東一円から人足が集められ、浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比率は圧倒的に男性が多かった。
その中で、江戸市中には遊女屋が点在して営業を始めるようになった。

幕府は江戸城の大普請や武家屋敷の整備などで都市機能を高めるために、庶民の移転などを強制し、中でも遊女屋は度々移転を求められた。
そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊郭の設置を陳情したのである。

当初は幕府に相手にされなかったが、数度の陳情に加えて3つの条件をつけて再度陳情した。

1. 一客を一晩のみ泊めて連泊は許さない。
2. 偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
3. 犯罪者などは届け出る。

この条件で受理されたが、幕府に他に「江戸市中に一切遊女屋を置かないこと、遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着る物は華美でないものとすること」を申し渡した。

しかし、寛永の頃までは遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を努めていた。

結果、幕府は遊郭を公認にすることで上納金を受け取るようにした。

市中の遊女屋の風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致し、吉原遊郭は日本橋葺屋町続きの2丁(約220m)四方の区画に決まる。

ここは江戸の僻地でヨシが茂っており、「吉原」という名はここから来ている。
この場所は後に「元吉原」と呼ばれた。

その後、江戸市中は拡大し続け、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていったことから、明暦2年(1656年)幕府は吉原に移転を命じた。
その結果、吉原は浅草寺裏の日本堤へと移転することになった。

移転にあたり幕府は以下のように便宜を図った。

1. 吉原の営業できる土地を5割増しとした(3丁四方)。
2. 夜の営業を許可。
3. 風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(風俗営業をする銭湯)で遊郭と競合をする200軒を取り潰した。
4. 周辺の火事・祭りへの対応を免除。
5. 15,000両の賦与。

この場所は「新吉原」と呼ばれ、現在の東京都台東区で、少し高く盛土がされた田んぼの中に造成された。

吉原遊郭の構造

吉原遊郭の歴史と仕組み

画像 : 江戸末期の新吉原の見取り図 wiki c

江戸の町のはずれに「見返り柳」という目印になる大きな柳の木があった。そこから曲がり道を通ってドブと塀に囲まれたおよそ300m四方の場所、その中央に大門という吉原の入口の門があった。

入口の大門を抜けると大通りであるメインストリートの仲之町通りがあり、その両側に並んでいるのが引手茶屋だった。この茶屋は客に花魁たちや遊女を紹介する案内所の役割を担っていた。
客は茶屋を介してお店に上がっていき、茶屋は客の素性や資金力を見定めそれにふさわしい遊女を紹介した。

管理されていたのは客だけではなく、遊女もランク付けされ徹底的に管理されていた。
吉原は日本最大規模の遊郭で、敷地面生気は2万坪、遊女は最盛期で数千人がいたとされている。

一晩で1,000両も売上があり、幕末の頃には売上の1割が幕府に納められ、幕府にとってはなくてはならないものとなっていた。

その中でも花形は花魁道中であった。

吉原遊郭の歴史と仕組み

画像 : 花魁道中の図 wiki c

客が金を出して贔屓の花魁(遊女)を着飾り、客が先頭に立ってその後を贔屓の花魁がゆっくりとメインストリートの仲之町通りを練り歩くのである。

花魁道中は客に気前よく金を払ってもらうための演出であり、花魁道中で一晩遊んで10両、現在の価値で約100万円のお金がかかったという。

更に吉原では幅広い層のお客を惹きつけるために仕掛けが施されており、春になるとメインストリートの仲之町通りは桜の木で埋め尽くされた。
もうすぐ咲きそうな桜の木を根っこごと吉原に運んで季節を感じてもらい、夜桜を楽しんでもらっていた。
夜桜の中で豪華絢爛な花魁道中が行われ、桜の季節が終わると今度は牡丹の花がメインストリートの仲之町通りを埋め尽くした。

夏が近づくと今度は涼しげな菖蒲が咲き乱れ、秋には俄(にわか)と呼ばれる仮装パレードが2か月に渡って行われ、様々な踊りなどが披露されていたのである。
四季折々のイベントが目白押しで、吉原は文化の発信基地となっていた。

男だけの世界だと思われている吉原だが、女性も自由に入ることができ、様々なイベントが行われ、花魁はさながら当時のファッションリーダーという存在であったのだ。

吉原は地形から町並み、そしてイベントと全てにおいて計算し尽くされた江戸で唯一無二の異世界空間だったのである。

関連記事 : 後編 吉原で最も有名な遊女「高尾太夫」と「16人の遊女たちの集団放火事件」

 

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