江戸時代

琉球王国と首里城の歴史について解説 ①

琉球王国とは

琉球王国と首里城の歴史

琉球王国の中心首里 wiki c

琉球国とは、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国である。

沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して勢力を広げて、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島まで勢力下においた。

当初はムラ社会の豪族であったが、三山時代(1322年~1429年)を経て沖縄本島を統一するころには、王国の体裁を整えた。

明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であったが、1609年の薩摩藩による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる保護国となった。

その一方では、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けず、1879年の沖縄処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。

沖縄処分

明治維新の成功を祝福するために琉球王国から派遣された使節。前列左から、宜湾朝保(宜野湾親方)、伊江王子、喜屋武親雲上朝扶(喜屋武朝徳の父)、後列左から、山里親雲上、外務省の役人

1609年の薩摩藩侵略により、琉球王国は日本の薩摩藩と朝貢国一宗主国の関係を結び、その後250年に渡って徳川家の治める日本の事実上の首都である江戸に一連の使節団を派遣した。

その一方で中国とも冊封関係を続け、使節団の受け入れと派遣を行っていた。

このように日本の他の地域に対する琉球の政治的地位は、少なくとも3つの点で例外的なものであった。すなわち、藩制度の一部構成するが直接的ではなく、第二尚氏によって統治され、鎖国政策にもかかわらず外国の大国と半自律的な外交関係を結んでいた。

1871年に起きた牡丹社事件により「琉球問題」が表沙汰になった。事件をめぐる清との交渉が続いていた翌年5月、琉球は長らく薩摩藩に従属しており、「日本の管轄に戻す」ことで「祖国の単一制度」が可能になるとして、琉球の併合を提案した。

1872年の正月、政府側と宮廷の役人が協議して、薩摩の島津氏に対する王国の旧債務を放棄することに合意した。

首里城の修復

琉球王国と首里城の歴史

焼失前の首里城

首里城は琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿として正殿などが旧国宝に指定されていた。

ところが1945年の沖縄戦後の琉球大学建設によりほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や基礎が残せれているのみであった。1980年代に本格的な復興がなされた。

2000年12月「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録されたのは実は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は含まれていない。

残念なことに2019年10月31日の深夜火災によって多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が全焼・焼失または焼損した。

首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。

尚巴志が三山を統一して琉球王国を立てると首里城を居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄えるようになった。

史書に記されているだけでも、首里城は数度に渡り焼失している。

焼失のたびに再建されてきたが、良材が不足しがちな沖縄では木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。

首里城は「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や伯、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていた。

1980年代に本格的な復元がなされた時、屋根瓦についての逸話がある。

屋根瓦について色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで瓦の生産が難航した。しかし、すでに沖縄瓦を生産しているのは奥原製陶ただ一軒だけであり、四代目によって首里城の瓦が復元された。

2014年に米国立公文書館から沖縄戦で焼失前の首里城のカラー写真が発見された。その写真によると、本殿の屋根瓦は黒く映っていた。しかしもともとの色が黒だったのか、劣化により黒くなったのかは不明である。

壁の色についても、見本の柱の古材にベン柄が残っていたという証言から柱はベン柄色に決められた。昭和大修理の際の内壁にベン柄が残っていたという記述から推定して外壁もベン柄色とされた。

 

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