幕末最大の剣術流派
北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)は、幕末の動乱期にあって隆盛を極め、江戸ひいては日本国内で最大の門弟数を誇ったと伝えられている道場・玄武館で伝えられた剣術の流派です。
江戸末期に千葉周作(ちばしゅうさく)が完成させたとされるこの流派は、かの坂本竜馬も江戸への剣術修行で学んだことでも知られています。
但し、竜馬は千葉周作本人やその道場ではなく、周作の実弟にあたる千葉定吉の桶町千葉道場に学んだものでした。
周作の道場・玄武館は、一説には門弟が約6,000名を数えたという一大流派でした。
二つの流派から派生
北辰一刀流は周作が創始したものではありますが、この元となったのが代々千葉家に伝えらえていた北辰夢想流でした。
これに更に一刀流を加えて編み出された剣技でした。
周作は寛政5年(1793年)頃、現在の宮城県気仙沼にて生を受けたという説が有力なようです。
幼少の頃から北辰夢想流を学んだ周作は、その後、父と松戸へと居を移すとその地で一刀流の中西道場において剣を学びました。
こうして二つの流派を極めた周作は、やがてそれらを合わせた独自の剣術へと昇華させていきました。
その後の文政5年(1822年)に江戸において玄武館を創設し、神道無念流の練兵館、鏡新明智流の士学館を凌駕する門弟数を得た流派として隆盛を極めました。
水戸藩の剣術師範
北辰一刀流・玄武館の剣術の特徴にはその合理性が挙げられます。
ややもすると精神主義に陥りがちな他の剣術と比較して、周作自身が学問の朱子学を学ぶことを推奨していたこともあり高い合理性を持った流派でした。
また稽古の方法も、竹刀と防具を使用した実践的な打ち込み稽古を中核としており、これは今に通じる剣道の形の元祖とも言える稽古法と言えるものでした。
また周作は天保10年(1839年)には水戸藩藩主であった徳川斉昭に聘招されて同藩の剣術師範に任じられ、2年後の天保12年(1841年)には馬廻役に取り立てられて100石取りの待遇を得ました。
こうして水戸藩との繋がりを得た北辰一刀流・玄武館でしたが、高弟達が先鋭的な水戸天狗党との関りを持ったことで、一時は幕府から咎められる立場にも置かれました。
財布に優しい剣術
北辰一刀流・玄武館の門弟として名高いのは、僅か5年の修行で免許皆伝を成し遂げた海保帆平や、浪士隊を幕府に献策した策士・清河八郎、幕臣の山岡鉄舟、新選組の藤堂平助、山南敬助などが挙げられます。
剣術としては「技」に優れたものと謳われ、先の竹刀を用いた修練手法に加えて、それまでの剣術では会得するのに8つの段階が設けられていたものを大幅に削減し、3つの段階へと簡略化して、時間そのものを短くすると同時にかかる費用も抑えた流派でした。
その3つの段階とは「初目録」「中目録」「大目録」というものでした。
この当時の風習では、こうした段階を上る毎に師を始めとする関係者に御礼を行うしきたりとされていたことから、費用的な部分で貧しい人物には大変な負担を強いるものでした。
このため、費用的に負担の少ない、他の比べてお金のかからない北辰一刀流・玄武館の段階制度は門人達に歓迎されたと伝えられています。
明治以後の北辰一刀流
周作は安政2年(1856年)に死去し、嫡男の孝胤も病で早世していたことから、二男の成之が受け継ぎました。
しかし成之も早世し、三男の光胤が継ぎましたが1872年(明治5年)に没して宗家としては廃絶されることになりました。
明治・大正時代には北辰一刀流を学んだ多くの旧武士達がいましたが、以後には竹刀を用いた剣術の流派が統一されていき、その中に北辰一刀流も組み込まれていきました。
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