三國志

関羽と張遼の史実における関係とは【三国志正史】

敵同士でありながら友情を育んでいた関羽と張遼

関羽と張遼

※成都武侯祠の関羽像 wiki(c)历史研究

三国志に登場する武将で人気投票を行った場合、関羽張遼 は間違いなく上位にランクインする人気武将である。

関羽と張遼は敵対関係にあった(正確には曹操軍と劉備軍)に仕えながら互いに友好関係を結んでいた事で有名であり、三国志をベースにした人気ゲームの『三國無双』シリーズでは関羽と張遼が戦場で遭遇すると、対張遼(対関羽)専用の固有のセリフが使われるなど二人の関係が強く強調されている。

正史でも演義でも関羽と張遼が良好な関係にあったと書かれているため仲が良かった事は間違いないが、それと同時に演義は何処まで二人の関係を膨らませているかが気になる。

今回は、三国志屈指の人気武将同士である関羽と張遼の関係に焦点を当て、正史と演義の表記の違いを調べてみた。

演義に描かれた伏線

時系列から追うと、演義による創作ではあるが劉備、曹操連合軍と敵対する呂布軍の武将として奮戦する張遼を見て、関羽が感銘を受けるという「伏線」から二人の関係が始まる。

結局呂布は敗れ、呂布とともに張遼も捕縛されるが、みっともなく命乞いする呂布を見て「見苦しいぞ!」と一喝し、呂布の処刑後張遼も自ら首を差し出す。

しかし、敵ながら張遼を高く評価していた関羽が張遼の助命を曹操に嘆願し、曹操も関羽の申し出を受け入れる(そして関羽と張遼の間に友情が生まれる)という完璧すぎる「伏線回収」が待っている。

一方、正史では呂布の処刑に際して張遼が往生際の悪い呂布を一喝したという記述はなく、シンプルに「張遼は曹操に降伏した」とだけあり、張遼が降伏するにあたって関羽が関与したという記述はない。

次の関羽と張遼の絡みがあるのは、演義で関羽が曹操に降伏する場面である。(なお、時系列ではまだ正史で関羽と張遼は出会っていない)

劉備一筋の印象が強い関羽が曹操に降伏した背景だが、200年に曹操は劉備を攻め、劉備軍はなす術なく曹操に敗れて敗走する。

正史では、戦に敗れた劉備は袁紹を頼って逃げ、曹操軍の捕虜となった関羽は曹操から厚遇されたというこれまたシンプルな記述に留まっている。

記述がシンプルだからこそ創作の世界では想像が進む訳で、演義では関羽を説得するために張遼が名乗り出る。

呂布とともに死ぬつもりだった自分の命を救ってくれた恩を返すべく、張遼は必死に関羽を説得し、関羽も三つの条件(劉備の家族を手厚く保護する、自分は曹操ではなく漢に降伏する、劉備の行方が判明したら曹操の元を離れる)を出してそれに応じる。

張遼降伏の際に引かれた「伏線」が回収される演義の名シーンだが、正史に書かれていない以上、これもフィクションである。

正史の関羽と張遼の出会い

関羽と張遼

※清代の張遼の画

演義では順調に友情を育む一方で、正史では同じ曹操配下になっても相変わらず関羽と張遼が出会う気配がなく本当に二人が出会うのか不安になるが、関羽の降伏から程なくして袁紹が曹操の領地に攻め込んだため曹操は関羽と張遼を先鋒として送り込んだとの記述があり、ここでようやく関羽と張遼が一緒に行動する場面が登場する。

三国志ファンなら一度は夢見る関羽と張遼の共闘だが、正史には関羽が顔良を斬って袁紹軍を退却させたとあるだけで従軍中の会話などは書かれていない。

関羽と張遼の間でどのような交流があったか定かではないが、この間に関羽と張遼が友好を深めた事は容易に想像が出来る。

次の場面は正史と演義で内容がリンクしており、顔良を斬るという手柄を立てた事で「曹操に対する恩は果たした」と関羽が去りたがっている事を知った曹操が、張遼を関羽の元に遣わして関羽の胸中を聞いている。

関羽は張遼に対して「曹操に感謝はしているが自分の主君は劉備だけであり、いつまでもここに留まるつもりはない。曹操の恩に報いたらここを去る」と正直な気持ちを打ち明け、張遼から報告を受けた曹操は「忠義の男」として更に関羽を気に入る。

恩を返したら去るという言葉の通り、関羽は曹操の元を去るが、ここから先は正史と演義で記述が違う。

演義では関羽に別れの挨拶を告げさせないため、病と偽って屋敷に入れないという曹操の情けない(しかしそれだけ関羽を手放したくないという気持ちが伝わる)姿が印象的だが、正史では関羽は曹操に手紙を残して去り、曹操も関羽の劉備への忠義に感服し、配下には後を追わないよう言ったと残されているのみで、演義のように関羽の後を追って曹操とともに見送ったとは書かれていない。

そして、これ以降正史で関羽と張遼が顔を合わせる事はなく、関羽と張遼が同じ時を過ごしたのは僅かな時間だった。

フィクションだから付け加えられた名場面

正史の関羽と張遼の絡みは僅かなものだが、演義ではもう少しだけ二人の絡みがあり、赤壁の戦いで敗走する曹操軍の前に関羽が現れ、張遼とも8年ぶりに再会する。

主君の命によって曹操を斬ると口では言う関羽だが、一時とはいえ配下として厚遇して貰った恩と、ボロボロになった曹操と友(張遼)の姿を見て斬る事は出来ないと曹操軍を全員見逃す。
そして、これ以降演義でも関羽と張遼が顔を合わせる事はなかった。

ここまで正史、演義の両面から関羽と張遼が一緒に登場する場面を抜き出して来たが、実際に二人が一緒にいたのは関羽が曹操軍にいた僅かな時間だけであり、現代まで伝わっている演義で描かれた関羽と張遼の友情は敵同士でありながら仲が良かったという史実を何倍にも膨らませて書かれていた事が分かる。

それが現代まで伝わり、ゲームやアニメ、漫画、小説といった創作作品では「敵ながらお互いを敬愛している友人同士」という設定として存分に活かされている。

関羽と張遼が打ち解けた理由

関羽と張遼の仲が良かった理由に関して正史では詳しく書かれていないため、ここは想像するしかないが、曹操軍を一般企業に見立てると辻褄の合う仮説が立つ。

同業種であれ異業種であれ、社員が転職した場合、その人と仲良くなりやすい(あるいは気に掛けてくれる)のは、同じく転職で会社に入って来た人間である。

転職」という同じ経験をしているためお互いに親近感が生まれ、慣れない環境に戸惑う相手の気持ちも分かる。

それがお互いに前に所属した軍で屈指の実力者であった関羽と張遼であれば尚更意気投合しやすくなる。(当時の張遼も曹操軍に加入してまだ2年の新参者だったので、同じく曹操軍入ったばかりの関羽の気持ちはよく分かっていたはずである)

同じような境遇で加入したため二人の相性がいい(すぐに打ち解けられる)と曹操が考えるのは自然であり、曹操の狙い通り関羽と張遼の良好な関係は今日まで伝わっている。

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