江戸時代

堀部安兵衛について調べてみた【赤穂浪士の最強の剣豪】

はじめに

忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作

忠臣蔵とは、赤穂浪士四十七士の討ち入り事件の総称として用いられている。

赤穂浪士の中で一番の剣豪とされるのが堀部安兵衛だ。

毎年、年末にはドラマなどでお馴染みの名前だが、堀部安兵衛は実際にどういう人物だったのであろうか?

江戸城人情事件・吉良邸討ち入り事件などを通して堀部安兵衛について調べてみた。

堀部安兵衛の生い立ち

堀部安兵衛(ほりべやすべえ)とは、正式な名前は堀部安兵衛武庸(ほりべやすひょうえたけつね)と言う。

寛文10年(1670年)、越後国新発田藩の溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男で中山安兵衛武庸として誕生、姉が三人いた。

安兵衛が13歳の時に父が城での櫓失火事件の責任を取って藩から追放され、父はほどなくして他界し孤児に。母方の祖父溝口盛政に引き取られたが2年ほどで死去し、長姉の嫁ぎ先長井家に身を寄せた。

高田馬場の決闘

安兵衛が19歳の時に江戸に出て堀内正春道場に入門、天性の剣術の才を認められ、免許皆伝となって大名屋敷への出張稽古の依頼も来るほどの評判になった。

堀内道場で、同門の菅野六郎左衛門と親交し叔父甥の義盟を結んだ。

その菅野六郎左衛門が同藩の村上庄左衛門と不和、決闘となり、安兵衛は助太刀を頼まれて承諾。元禄7年(1694年)2月11日に高田馬場で決闘となり、安兵衛は相手方3人を斬り倒したのだ。

この活躍が江戸の瓦版で「18人斬り」と数が多く増やされて評判になり、安兵衛には複数の藩から剣術師範や家臣としての話が来て、その中に赤穂藩浅野家家臣の堀部金丸(弥兵衛)から養子縁組の誘いがあった。

堀部安兵衛の遺書が発見される

※『誠忠 義士肖像』より「堀部矢兵衛金丸」 歌川国芳作

当初中山家を潰すわけにはと断っていた安兵衛も金丸からの熱い思い(主君の浅野内匠頭長矩から中山姓のままで養子縁組の異例の許可)で堀部家の娘・ほりとの婿養子になることを決めた。

安兵衛は、1697年に養父の金丸が隠居して家督を継ぐと中山安兵衛ではなく堀部安兵衛として生きることを決め、赤穂藩では御使番、馬廻役として200石の禄を受けた。

江戸城刃傷事件

※浅野長矩

元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で高家筆頭・吉良上野介義央に脇差でいきなり切りつけた。なぜいきなりこんな凶行に出たのかは諸説あるが、浅野長矩は吉良から日々いじめや侮辱をうけていたとされ世間にも知られるほどだったようである。吉良上野介義央は一命をとりとめたものの、長矩は即日切腹・浅野家は改易と決定。

この時に江戸詰めであった堀部安兵衛は、奥田重盛、高田郡兵衛と共に赤穂城に戻り筆頭家老の大石内蔵助に事の次第を話し、籠城もしくは吉良上野介への仇討ちを主張するのだ。

この時代は、喧嘩両成敗とされていたが吉良が刀を抜かなかったことで吉良はお咎めなしとなった。浅野家の家臣たちは激怒し籠城を主張したのだったが、大石内蔵助は、藩主浅野内匠頭の弟である浅野大学による浅野家再興を優先することを諭されて、安兵衛達は赤穂城の明け渡しを見届けた後に江戸に戻ったのだ。

堀部安兵衛の覚悟

堀部安兵衛の遺書が発見される

※大石良雄の肖像画(大石内蔵助の名で有名)

堀部安兵衛は、家臣になってから日も浅く外様扱いを受けていたが、江戸急進派(吉良を討つと主張する強硬派)のリーダー格となり、大石内蔵助に江戸下向するよう書状を送り続けた。

書状の中身は、「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道が立たない、たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようになっては人前に出られないだろう」と主張。大石内蔵助は家臣達を江戸に送り安兵衛の説得を試みるが、逆に安兵衛に論破され急進派に加わる次第となった。

それで大石内蔵助は自ら江戸に出向き、安兵衛ら急進派を一周忌に仇討ちすると約束して説得する。しかし、一周忌を過ぎても動かぬ大石内蔵助に業を逃がした安兵衛は、大石内蔵助暗殺を計画するまでに至るほどになった。

浅野家再興が絶望的になり、覚悟を決めた大石内蔵助は元禄15年7月28日に京都丸山会議で安兵衛らを招いて仇討ちを決定。江戸に戻った安兵衛は同志達に京都での決定を告げたのである。

吉良邸討ち入り事件

堀部安兵衛の遺書が発見される

※吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

元禄15年(1703年)12月14日、赤穂浪士四十七士は、江戸本所松坂の吉良邸に討ち入りを決行して吉良上野介を討ち取った

吉良側の死者は15名、負傷者は23名であったにも関わらず、赤穂浪士47人は負傷者2人のみで死者はいなかったという。

その後、吉良邸から引き揚げ首を亡君の墓前に供えて、幕府の大目付に討ち入りを伝えたのだ。

赤穂浪士らは、4人の大名家に預けられ罪人ではなく武士の英雄として扱われたが、元禄16年(1703年)2月4日に全員切腹、亡君浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬されたである。

討ち入りでの堀部安兵衛の活躍

堀部安兵衛は、高田馬場の決闘での体験から四十七士の討ち入りの装束に、鎖や針金を加えさせたとされる。

討ち入りには、大太刀に二尺八寸の樫の木柄をつけた野太刀作りにして、その大太刀を車輪のように振って奮戦したのである。
高田馬場の決闘が、討ち入り成功の鍵となったとも言えるである。

忠臣蔵とは

堀部安兵衛の遺書が発見される

「忠臣蔵十一段目夜討之図」 歌川国芳画。

忠臣蔵とは、江戸城松の廊下の刃傷事件と吉良邸討ち入り事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の通称であり、この事件を基にした様々な作品の総称である。
史実としてこの事件を述べる場合は、赤穂事件と言う。

赤穂浪士の討ち入りを聞いた幕府の老中筆頭の阿部正武は、「このような忠義の士が出たことはまさに国家の慶事」だと称賛。報告を聞いた将軍綱吉も感激して「処分を熟慮の上で決定せよ」と4人の大名家に預けるようしたとされるのだ。

毎年、年末の風物詩となった忠臣蔵の物語は、歌舞伎、舞台、映画、ドラマなど様々な形で語り継がれて来て、中でも堀部安兵衛は四十七士の中で一番の剣豪として語り継がれているのである。

堀部安兵衛の遺書が発見される

堀部安兵衛が、討ち入り前に残した書き置き(遺書)が2018年12月のテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」で発見された。

遺書には討ち入り前の心境、自分の死後の家族への想いなど300年以上前の自筆の書き置き3点があった。

2017年11月26日には、新潟県新発田市の長徳寺で堀部安兵衛の墓碑の建碑式が行われた(産経ニュース

赤穂浪士の墓所である泉岳寺から持ち帰った墓の土が墓碑に納骨されたである。

薄桜記の堀部安兵衛

薄桜記とは、産経新聞の夕刊に1958年7月~1959年4月にかけて連載された五味康祐の時代小説である。

堀部安兵衛の遺書が発見される

この小説の簡単なあらすじは、丹下典善と中山安兵衛の2人の剣士が江戸の堀内道場で出会い、友情を深め、丹下典善が片腕になって安兵衛の世話を受け、高田馬場の決闘を経て、安兵衛は赤穂家へ、典善は上杉家へと運命が分かれ、討ち入り前に仇討ちの障壁となる丹下典善を倒すべく2人は決闘となる。その間の2人の葛藤や悲恋、互いに思いやる心が描かれた作品である。

堀部安兵衛の人生

堀部安兵衛は、19歳で親戚を頼って新発田から江戸に出て来て当時盛況だった堀内道場に入門し、すぐに頭角をあらわし免許皆伝となって「堀内道場の四天王」と呼ばれるようになった。

高田馬場の決闘で助太刀として現れるや否や3人を瞬く間に斬り倒す。瓦版が尾ひれをつけて18人を斬ったと江戸で評判となり複数の大名家から士官の口が来たが、赤穂藩に決めて中山安兵衛から堀部安兵衛となる。

赤穂藩士になって7年目に江戸城で刃傷事件が起こり浪人になるが、主君の仇討ちの急進派のリーダー格となり吉良邸討ち入りで大太刀を持って暴れ回り、本懐を遂げて切腹するという人生である。

当時は、江戸一番の剣豪として有名になり、悲運のヒーローとも言える波乱万丈の34年間の生涯を送った人である。

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