阿茶局とは
徳川家康には20人ほどの側室がいたが、その中でも一番信頼を得て側室でありながらまるで正室のように振る舞い、2代将軍・秀忠も実母のように慕った女性が阿茶局(あちゃのつぼね)である。
阿茶局は大阪冬の陣では家康の代わりに徳川の代表として和議の交渉を行った。その後、秀忠の娘・和子の入内に付き添うという大役を任されて、天皇から官位を賜った数少ない女性なのだ。
家康・秀忠の2代に渡る将軍を支えた側室・阿茶局について解説する。
家康に見初められる
阿茶の局は弘治元年(1555年)2月13日甲斐武田家の家臣・飯田直政の娘として甲府で生まれる。
名は須和で19歳の時に一条信龍に仕えた神尾忠重に嫁ぎ、神尾守世・神尾守繫の二男を設けるが夫・忠重は天正5年(1577年)7月に亡くなる。
生活が困窮した須和は子供を連れて浜松城下で商品売買を手掛けて、浜松城内に出入りできるまでになる。
天正7年(1579年)浜松城内で徳川家康に見初められた須和は、25歳で側室「阿茶局」となる。
家康は正室の築山殿と長男・信康を織田信長の命で亡くしていた。
だからこの当時の家康は、子供を産んだ経験のある女性を側室にしていた。
阿茶局はとても聡明で、3人いた側室の中でも才色兼備で、武士のたしなみである馬術や弓術にも長けていたため家康は寵愛し、数々の戦に同行させる。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにも阿茶局を連れて行くが、身ごもっていた阿茶局は流産してしまい子供を産めない体になってしまった。
天正17年(1589年)家康は三男・徳川秀忠の実母・西郷局が亡くなると、阿茶局に秀忠と松平忠吉の母親代わりを任せた(※秀忠と松平忠吉はともに家康と西郷局の息子)
秀忠は阿茶局を実の母のように慕い信頼した。
そのため、阿茶局は家康との間に子供は出来なかったが、家康と2代将軍・秀忠に顔を突き合わせて物を言える唯一の存在となった。
大阪の陣
慶長8年(1603年)2月12日に家康は征夷大将軍に就任して徳川幕府を開いた。
大坂城にいた淀殿は、臣下である家康は豊臣秀頼を関白にするものと思っていたが、秀忠が2代将軍となったことで両家の対立が深まっていく。
慶長19年(1614年)11月に徳川軍vs豊臣軍の大阪冬の陣が起こった。
大坂城を約20万の軍で包囲した幕府方は降伏を即すも、兵糧不足などもあり和議の方向へ話が進んでいった。
同年12月3日からは豊臣方の織田有楽斎を通じて和平交渉が行われる。
12月8・12日には織田有楽斎と家康の重臣・本多正純・後藤光次との間で書を交わすが交渉はまとまらない。
12月15日には豊臣方より淀殿が江戸に人質となる代わりに、籠城浪人の加増を条件とした和議案が出されるも家康は拒否した。
12月17日には朝廷より後陽成上皇の使者として、武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条が家康に和議を勧告するも、家康は拒否する。
徳川vs豊臣の和平交渉役に抜擢
そしてもつれた和議の交渉役として阿茶局に声がかかるのである。
側室という立場の女性が、徳川幕府の大役を任せられるのは前代未聞のことである。
豊臣方の交渉役が淀殿の妹・常高院であったことも大きいが、家康・秀忠が阿茶局に絶対的な信頼を寄せていたことが伺える。
12月18日徳川方の京極高次の陣で和平交渉が行われ、徳川方は阿茶局と本多正純、豊臣方は常光院と大蔵卿(大野治長の母)であった。
和議の条件として豊臣方は本丸を残して二の丸・三の丸を破却して南堀・西堀・東堀を埋める。
また、淀殿を人質としない代わりに大野治長・織田有楽斎から人質を出すこと。
徳川方は豊臣秀頼の身の安全と本領安堵に、城内の浪人についての不問である。
和議はこの他に、秀頼及び淀殿の関東下向をしなくて良いこと、大坂城の破却と堀の埋め立ては、二の丸が豊臣家で三の丸は徳川家の分担にすることが決められた。
阿茶局は家康から申し付けられた条件を相手方に納得させることに成功する。これにより阿茶局の名は全国に知れ渡ることになる。
しかし家康は約束を破り、大坂城の外堀・内堀を埋め、二の丸・三の丸を破戒し大坂城を丸裸状態にしてしまった。
翌年の大坂夏の陣で、真田幸村率いる部隊が家康の陣に肉薄した時も、阿茶局は家康の側にいた。
この戦いで豊臣家は滅亡し、家康・秀忠親子は名実共に天下人となる。
雲光院
元和2年(1612年)家康は病で倒れるが、阿茶局に「江戸に行って残された秀忠を助けるように」と頼んだ。
秀忠はその時37歳で、江戸城の奥には御台所のお江や春日局もいたので、阿茶局は奥ではなく、江戸城内に屋敷と化粧料300石を与えられて暮らした。
髪は下ろさずに「雲光院」と号した。秀忠が亡くなった後に正式に剃髪したとされる。
秀忠は朝廷工作として、亡き家康が約束をしていた五女・和子(まさこ)の後水尾天皇への入内を実行に移す。
元和6年(1620年)秀忠は和子の入内に、信頼のおける阿茶局(雲光院)に母代わりとして同行するように頼む。
無事に入内した和子は後水尾天皇との間に複数の皇子が生まれ、第一皇女は後に明正天皇となった。
阿茶局はこの功により、後水尾天皇から従一位民部卿を賜ることになり、一位局・一位尼と称される。
寛永14年(1637年)1月22日、阿茶局は83歳で死去した。
家康が一番頼りにした女性
阿茶局は25歳の時に徳川家康に見初められ側室となり、二人の間には子供は出来なかったがその才覚を認められた。
その後、2代目秀忠の母親代わりと家康のブレーンとして常に側にいて。天下取りに貢献する。
大坂冬の陣では徳川方の代表として和議の交渉役に抜擢され、功績を挙げた後には公武合体政策の後ろ盾として秀忠五女・和子の入内を成功させた。
男性社会の戦国時代において、阿茶局のような活躍をする女性は少なく、まさに家康が一番頼りにした女性(側室)であった。
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