大塩平八郎の乱
江戸時代に天保の大飢饉が起き、庶民の生活は困窮し多くの餓死者を出てしまうが、幕府はそれに対して質素倹約以外の方策を打ち出さなかった。
そんな幕府に対して1人の男が立ち上がる。その男の名は「大塩平八郎(おおしおへいはちろう)」である。
大坂東町奉行組与力として働いた大塩平八郎は辞職後に陽明学者となり、幕府に対して反乱を起こした。
幕府側にいた人間が起こした反乱は全国に影響を与え、天保の改革へとつながる。
今回は大塩平八郎と大塩平八郎の乱について追っていく。
大塩平八郎とは
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、寛政5年(1793年)大坂東町奉行組与力を務める大塩敬高の子として、大坂天満で生まれた。
大塩家は代々大坂東町奉行組与力を務めており、平八郎も与力となった。
平八郎はとても厳格な人間で汚職を嫌い、組違いの同僚与力・弓削新左衛門の汚職を内部告発するなど次々と不正を暴いたという。
そのため奉行所内には彼を疎む者も多くいたというが、上司の東町奉行・高井実徳が平八郎を後押ししたという。
そんな中、上司の高井実徳が転勤となってしまい、平八郎は味方を失い与力の職を辞して、養子・大塩格之助に跡目を譲った。
平八郎は独学で儒教の一派である「陽明学」を学び、自宅に私塾「洗心洞」を開き子弟を指導した。
陽明学は形骸化されていた「朱子学」を批判し、実践的な倫理を説くものである。
当時は朱子学全盛の時代で、平八郎の陽明学は主君が絶対の時代に反論するものであった。
平八郎の講義は性格の厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり平八郎の目をまともに見ることが出来なかったというほどだった。
だんだん平八郎の陽明学は評判になり、平八郎の名は知れ渡るようになった。
天保の大飢饉
天保4年(1833年)秋から天保5年(1834年)夏にかけての飢饉と、天保7年(1836年)秋から天保8年(1837年)夏の飢饉は、天保の大飢饉と呼ばれた。
文政11年(1828年)の九州大洪水から断続的に天災が続いたために米価は高騰し、平八郎の住む大坂では飢饉による死者が続出した。
陽明学者となった平八郎は、奉行所や幕府に対して献策できる立場にあり、多くの餓死者が出る対策を養子・格之助を通して献策していた。
平八郎の意見に肯定的な人物であった大坂西町奉行の矢部定謙(やべさだのり)は、天保4年から天保5年にかけての飢饉では平八郎を顧問のように遇し、献策を用いていた。
しかし、矢部定謙が勘定奉行に栄転してしまうと、平八郎の意見は通らなくなっていく。
決起
矢部定謙の栄転後、大坂東町奉行に就いた跡部良弼(あとべよしすけ)は、幕府への機嫌取りを優先して飢饉の状況を顧みず、大坂から江戸に強制的に大量の米を送ってしまった。
跡部は町奉行の強権を発動し、京都から米を買いに来た者たちを捕まえてしまう。
米業者が捕まってしまったために京都の町は米が足りなくなり、多くの餓死者で溢れかえった。
さらに豪商が米を買い占めてしまい、米価が高騰していった。
そこで平八郎は跡部に対して「蔵米を民衆に与えて豪商の買い占めをやめさせるように」と献策した。
しかし、平八郎の献策は聞き入れられなかった。困った平八郎は自分と門人の禄米を担保に入れて、ある豪商に1万両の借金を申し込んだ。
しかしこれを聞いた跡部は豪商に手を回し、平八郎の申し出を断らせてしまう。
平八郎は自らの蔵書を売ってその金で救済活動を行ったが、跡部はこれすらも平八郎の売名行為だと冷たくあしらったという。
大坂の町には食べる物が無くなり、京都から流れてきた人も多くなって町の治安が悪化してしまう。
さすがの平八郎も万策がつき「武力で行使するしか問題の根本的解決は果たせない」と決心する。
奉行所と江戸幕府、奉行所とつながって私腹を肥やした豪商たちに対して決起し、自分の門下生や近辺の農民に対して檄文を回して共に立ち向かう仲間を集めた。
大塩平八郎の乱
天保8年(1837年)2月19日、平八郎は「救民」の旗印を掲げ、私塾・洗心洞の門下生20数名と共に自らの屋敷に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと向かった。
進んでいくうちに平八郎の一党は300人ほどになり、船場の豪商たちの屋敷を次々と襲撃し始めた。
しかし、門人たちの中に奉行所へ密告した者がいて、平八郎の一党と奉行所が激突。
半日ほどたったところで平八郎の一党は壊滅状態となってしまった。
平八郎の一党は少数に分かれて逃亡。平八郎は跡部の暗殺をするために大坂東町奉行所の様子をうかがっていたが、チャンスがなくやがて逃亡した。
数日後、平八郎は大阪に舞い戻り、美吉屋という商家に1か月ほど潜伏したが、奉行所に見つかってしまい養子・格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。
享年45歳であった。
大塩平八郎の影響
大塩平八郎の乱は「幕府側にいた元与力の高名な陽明学者が、幕政中枢の都市である大坂で反乱した」ということで驚きの声が上がり、瞬く間に全国に知れ渡った。
平八郎が決起の前に門弟や農民たちに送った檄文は各地に広まり、その考えに共感する者が続出して各地で似た様な反乱が起きたという。
平八郎の遺体が本人と判別出来る状態でなかったために「平八郎は生存していてアメリカと手を組んで江戸を襲撃するのではないか」という壮大な噂話まで出るほどの、衝撃な事件となった。
大塩平八郎の乱に朝廷も関心を示し、各地の神社に豊作の祈祷を命じてその費用を幕府に賄わせしようとした。
すると幕府はなんとこの費用負担をあっさり認めてしまった。過去200年に渡り朝廷に対して絶対的な権力を見せていた幕府が朝廷の命に従ったのである。
「天保の大飢饉」と「大塩平八郎の乱」は幕府にとっては無視出来ない事柄となり、老中・水野忠邦による天保の改革が始まった。
水野は質素倹約を断行し、庶民の娯楽などを制限するなど数々の政策を断行するが、いずれの政策も失敗に終わってしまう。
米の年貢に頼った幕府の財政再建策は失敗に終わり、長州藩や薩摩藩などの西国雄藩が独自に行った経済政策は成功する。
水野忠邦は失脚し天保の改革は失敗に終わり、財政を立て直した西国雄藩はその金を軍備の増強などに充て力をつけていくこととなる。
おわりに
大塩平八郎の乱は天保の改革へとつながり、天保の改革の失敗は幕府の権威を失墜させてしまう。
このことは独自の経済政策を成功させた西国雄藩たちが幕府の衰退を知ることになり、後の倒幕運動への足掛かりへとつながっていく。
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