余暇の過ごし方には文化がある。
現代では娯楽は数多くあるが、音楽を聞いたり漫画を読んだり、というのも立派な文化であるし、絵画や芸術を鑑賞するのも文化であり、そこに貴賤はなく選択肢があるばかりだ。
現代の娯楽が多いのは、あらゆる娯楽に短時間にアクセスできる環境がそうさせているわけであるが、それでは現代ほどに情報や物流も整っていなかった江戸時代には、人々はどのような娯楽に触れ、余暇の時間を過ごしたのであろうか。
この記事では、江戸時代の人々が楽しんだ娯楽や余暇の過ごし方について解説してみよう。
およそ265年間にわたる「泰平の世」
江戸時代といえば、日本の歴史の中でも戦国の世が終わり、長い「泰平の世」となった時代である。
この時代にはこれまで戦続きだった人々も、社会・生活を安定させることや、農業・商業を充実させたり維持するべく働く時代であったし、戦のために貴重な資産や人名が軽々しく奪われたりすることが少ない時代となった。
こうした時代背景から、人々が余暇の時間を過ごすための「娯楽」も発展した時代であるといえよう。
「過労死」とは…?江戸時代の働き方
江戸時代の働き方は、身分や天候(農作物の撮れ高)によっても左右された。
一例としては、「勤番」と呼ばれる身分の武士は外出などの自由は制限されていたものの、1日働くと2日休みといった勤務体系もあったという。
また、商人でも大店(おおだな)などは休みが難しかったが、たとえば力仕事を請け負う荷揚げ、大工などの仕事では、「午前中は働き、午後からは自分の時間」というように、現代に比べるとかなり労働時間が短かったようだ。
というのも、現代のように街灯や強力で安定した照明設備があるわけではないので、基本的に日が出ている間しか働けないことも影響しているだろう。もちろん、全員がそのような働き方だったわけではなく、たとえば先に挙げた「大店」に奉公する「丁稚」などは、現代で言うところの「過労死」のような事例もあったことだろう。
休日は「読書の時間」!?-貸本屋に通う江戸庶民
江戸時代の日本における、「庶民の識字率」の高さはたびたび話題にのぼる。
行政運営などで文字を扱う必要がある武士階級の識字率が高かったことは納得できるものだが、学校や義務教育といった概念がない当時の庶民層であっても読み書きができたようだ。
この識字率の高さを示すエピソードとして、1838年に日本へ滞在していたロシア語教師のレフ・イリイッチ・メーチニコフが、人力車を押す「肉体労働者」であるはずの車夫や全身に入れ墨を入れた馬丁や下働きの召使いなど、当時の、または彼の価値観でいえば社会の「下層」に位置するような労働者、子供たちでさえも常に傍らに本を持ち、読んでいることに驚いている。
彼が見た人々の持つ本はいずれも「手垢にまみれていた」とされることから、所有している同じ本を何度も読んでいたか、あるいは現代で言うところの「レンタル屋」である「貸本屋」で借りてきた本であった。
主に小説などが好んで読まれていたようであるから、彼ら・彼女らが「勉強のため」といって読まされていたのではなく、自ら進んで余暇の時間に読んでいたこともうかがえるエピソードである。
身分を超えて楽しむ「歌舞伎芝居見物」
歌舞伎芝居の見物は、江戸時代の人々が身分や立場を越えて熱狂した趣味のひとつだった。
歌舞伎の席にはランクがあり、現代のバンドやアイドルグループによる音楽ライブに近い感覚と言えよう。当時の物価を現代の価値に換算したところ、「桟敷席」と呼ばれる最高ランクの席が18万円前後と高額であることから、富裕層向けの「S席」「プラチナ席」などと近い感覚といえるだろう。
一方、それほど豊かでない庶民が主に利用していた「立ち見席」は、200~300円前後と「お手軽」であった。席の違いはあったものの、豪農や豪商も庶民も同じ「拍子木」で舞台に釘付けとなり、演目を見て熱狂し、役者の「見得」や「六方」に興奮し、仕掛けを凝らした「外連」を見て驚きの声を挙げた。
ちなみに歌舞伎の楽しみとして、江戸時代は現実の出来事そのものを演じることが禁止されていたことから、「狂言綺語」と呼ばれるように、作り話を演じてきた。
しかしながら時代が明治に移行すると、明治政府は諸外国に日本が先進国であることをアピールする意図から歌舞伎の内容に干渉しはじめ、その中には「狂言綺語を禁止する」といった内容も盛り込まれていたという。
大衆文化としての歌舞伎は、こうして時代とともに変化しつつ受け継がれてきたのである。
庶民も武士も熱中「和算で算術合戦」
和算という学問は、中国から伝わった数学を基礎としている。
和算が庶民の間に広まり始めたのは室町時代で、中国から算盤(そろばん)が伝わったことや、当時の行政・税務などの役職を務める武士にとどまらず、貨幣経済が浸透したことで商人や農民にも数学の知識が必要となったことが背景として挙げられる。
「和算」は現在の義務教育で学ぶ「数学」とは体系が異なり、そろばんの使用法に始まり、測量などの実用数学ももちろんのこと、代数方程式や円周率、微分・積分法といった応用数学や、ねずみ算、継子立て(いわゆる数学パズル)といったものに至るまで多岐にわたった。
この和算は、庶民や商人にとって実用性のある「生活のための学問」であったばかりでなく、余暇の時間を有意義に過ごすためのツールでもあった。現代の感覚で言えば「数独」などが、頭を使う娯楽として近いといえるだろうか。
和算は「自分が解くもの」というだけのものではなく、人との「知恵比べ」にも用いられた。
神社の「算額」に和算の難問を記して奉納し、他の「和算マニア」に対して、「解いてみよ」とばかりに挑戦するわけである。また、難解な問題を解いたときにも成果としてその問題を奉納したという。このように江戸の人々は武士や農民という地位を超え、神社で算術合戦を展開していたのである。
なんとも知的な余暇の過ごし方である。
おわりに
江戸時代は、現代と比べれば未だ科学技術も未熟であったし、医療も発達していなかった。戦こそなかったが、犯罪や凶悪事件も当然発生していた。
それでも、長く続く戦国の世に比べれば人々の生活は豊かになったし、戦がない分、人々は社会生活の中で余暇や娯楽を楽しむ余裕が生まれ、発達した時代でもある。
現代とは異なり、余暇の選択肢が限られていた時代であったからこそ、人々の知的好奇心が刺激されたり、既存の娯楽をしっかりと探求して、新しいスタイルの娯楽を生み出していた時代だったのであろう。
娯楽に貴賤はないが、「いまある娯楽をただ消費する」という余暇の過ごし方とは違ったようである。
この記事へのコメントはありません。