参勤交代とは
参勤交代とは、全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参勤し、1年たったら自分の領地に引き上げるという交代制度である。
元々は将軍に対する大名の服属儀礼として自発的に行われていたものであったが、寛永12年(1635年)に3代将軍・家光が軍役奉仕を目的に「武家諸法度」を改正して制度化させた。
参勤交代のルーツは鎌倉時代の御家人の出仕だとされ、豊臣秀吉が戦国大名の妻子を大坂に住まわせたことにも由来する。
各大名が江戸に来て将軍に謁見する風習を創ることで、将軍家に対する絶対的な服従を形式化させ、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならず、人質を江戸に置くという側面もあった。
また、大名たちの江戸までの旅費は自己負担であり、江戸での滞在費まで負担させていた。
各藩は財政的に切迫したが、これは諸藩の軍事力を低下させる役割を果たし、幕府にとってはまさに一石二鳥の法令であった。
参勤交代の手続きと仕組み
参勤前の手続きとして、まず諸藩は国許より使者を立てて江戸留守居役と同行して書状を幕府に提出する。
それを受取った老中は、他の大名と日程が重ならないように奉書にて参勤時期の指示を行う。
外様大名は4月中、譜代大名は6~8月と江戸に参勤する期間が決められていたが、御三家の水戸藩や老中など幕府の要職に就いた大名は、基本的に江戸定府(江戸に常駐)であった。
対馬藩は3年に1度、蝦夷地の松前藩は5年に1度と、遠隔地の一部の大名には特別な配慮もあった。
1万石以上が大名とされたが、1万石以下でも大名に準じた家格を持つ一部の旗本は参勤交代を行った。
儀礼的には老中が日程を決めると、国許から江戸へお礼の使者が送られた。
各藩は江戸に到着するとまず老中に到着を報告した。その後、老中の使者が江戸藩邸を訪問、後日老中より登城を命ずる奉書が届き、藩主が登城して将軍に謁見し、同時に献上品を差し出すというのが一連の流れであった。
参勤交代を怠った場合の処罰
参勤交代を怠ったり遅れることは厳禁とされ、厳しい処罰が下された。
元和9年(1623年)福井藩主・松平忠直は参勤交代を怠ったために隠居させられ豊後に配流となった。
寛永13年(1636年)盛岡藩主・南部重直は到着が予定よりも10日遅れてしまい蟄居となり、遅参でも重罪を科せられた。
参勤交代の人数
行列の人数は、1万石で約50人、5万石で約170人、10万石で約240人、20万石で約450人など禄高によって大きく変化し、一番石高の多い102万石の加賀前田藩は最大で4,000人、平均でも2,000人となった。
藩主の乗る駕籠(かご)は大きく、担ぎ手もそれなりの人数が必要だった。さらに乗り換え用の駕籠、高齢者や上級藩士、医師、夜勤番明けの藩士の駕籠も必要で、担ぎ手だけでもかなりの人数となった。
藩主の家財道具一式、食糧、料理道具、皿や湯呑みや箸、家財道具一式に風呂桶なども運搬された。また大名たちが威厳を競い合って人数を増やすという悪循環もあった。
参勤交代の距離と費用
加賀前田藩は江戸までの距離が約480km、13日か14日間を要し、費用は今の金額で約4億3,000万円はかかった。
薩摩の島津藩は江戸までの距離が約1,700km、2か月の行程で、経費は加賀前田藩の3倍の約13億円がかかったという。
TVドラマなどでは大名行列は「下に~下に~」との掛け声でゆっくり歩いているイメージが強いが、行列が隊列を整えて進むのは国許を出る時や江戸に入る時、または宿場の前後の要所だけであったという。
実は行程が一日遅れるだけでも費用は相当な額になり、しかも決められた日程に江戸に到着しなくては重罪となる。そのため途中はかなりの強行軍で1日30~40kmは進んでいた。
初期の大名行列では、宿から宿に荷物を運ぶ「宿継人足」が使われていたが、何度も雇い直しをするために手間と手間賃がかかった。
そこで「通日雇(とおしひやとい)」という国許から江戸まで荷物を運ぶ人足が登場し、多くの藩が彼らを頼るようになった。
更に通日雇を専門に斡旋する六組飛脚問屋(むくみひきゃくどんや)という今でいう人材派遣会社も出来て、駕籠かきや槍持ちもさせた。
大名行列の先頭には背の高い人物を配置していた。背の高い通日雇は賃金が高かったが、大名行列のうち3分の1は彼らが占めていたという。
ひれ伏さなくても良かった
大名行列を前に庶民がひれ伏している場面を映画やTVドラマではよく目にするが、基本的にはひれ伏さずに見てもよかった。
ひれ伏すのは将軍家・御三家・御三卿だけで、他の大名の時は「寄れ」と言われて脇に寄せられるだけであった。
他の大名も将軍家・御三家・御三卿に出会えば、藩主は駕籠から下りて挨拶しなければならなかった。
江戸の人たちは、諸藩が競い合う大名行列を今で言うアトラクションとして楽しんでいた。この紋は何藩という冊子を作り、それを見ながら楽しみにしていたという。
このため、各藩が華麗さを競い合ってしまうのも無理はなかった。
宿家老
各藩では宿家老(しゅくがろう)と呼ばれる家老職が参勤交代を担当し、準備は半年も前から行われた。予算の調達に始まり、他大名との宿場の重複はないかと偵察の者を出す必要もあった。
御三家や幕府の役人や勅使、他の大名行列とすれ違わないように気を遣い、旅行日程の調整や通る街道の指定、宿の手配と宿代の交渉、通日雇の手配など、その準備は多岐に渡る。
幕府に提出した期日までに円滑に江戸に到着するために、増水などの災害に備えて橋や道路の整備もしなければならなかった。
殿様の宿泊場所「本陣」
宿場町で殿様が宿泊場所とするために、その町で一番大きな屋敷を借り、そこを「本陣(ほんじん)」と呼んだ。
本陣となる大きな屋敷には殿様の家財道具一式や風呂桶が運ばれて、専用の料理人が皿や箸のたぐいまで持ってきていた。
殿様が宿に泊まらなかったのは食事に毒などを盛られないためであり、警護の者と藩の重臣だけが本陣に泊まることを許された。
殿様が宿泊するのだからさぞかし高額な宿代が貰えるだろうと思われるが、なんと本陣を提供した者は殿様に宿代を請求することが出来ず、殿様から1両ほどの祝儀を貰えるだけであった。(※1両は現在価値で江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円)
その他の藩士や人足は宿場町の旅籠に宿泊した。宿代は今の金額で1人1泊約4,000円ほどであったという。
参勤交代が後世に与えた影響
参勤交代で各大名が家臣と共に江戸に暮らすため、江戸には彼らの消費を目当てに全国各地から人が集まって来た。
江戸は急激な人口増加に伴い食糧が足りなくなり、特に野菜が不足してビタミン不足となり「脚気」が大流行したという。
そこで諸藩は国許の食べ物、主に野菜と種を江戸に持ち込み、大名屋敷内外に畑を作って作物を育てた。
尾張徳川藩は、地元の尾張大根の種子を江戸に持ち込んで栽培していた。
5代将軍・綱吉が脚気を患い練馬で療養していた時に、尾張大根の種子を取り寄せて大根を食べて病状が好転したことがあった。
それから練馬で大根が栽培されるようになったが、練馬は作物の栽培に適していたために尾張大根よりも大きな大根が育ち、特産物となったという逸話がある。
全国諸藩からもたらされた作物の種子は江戸で大きく独自に育ち、各藩が国許に戻る時にはその種子を買い、国許で育てて農作物を作るという流れが生まれた。
参勤交代で各藩は莫大な費用がかかったが、生き残りや財政難打開のために新たな産業を起こし、国と地方の交流が盛んになることで「地方創生の走り」となった。
他にも、全国的に橋や道路の整備が行われ宿場町も発展し、参勤交代が後世に与えた影響は大きかった。
お金が回ることから経済効果も大きく、江戸の文化が全国に広まり、単身赴任の家臣が多かったことから遊郭も発展していった。
参勤交代は大名には大変なシステムだったが、社会秩序の安定と文化の繁栄に繋がることになった。
江戸幕府が約260年間も続く大きな要因になったといえよう。
練馬大根などのルーツが参勤交代から
来ているなんて驚きでした。
将軍の弟でも参勤交代を怠ると配流さ
れる徳川の家のためには
容赦ないシステムだったんですね