江戸時代

盛岡藩士が弘前藩主の暗殺事件を画策した 「相馬大作事件」

相馬大作事件とは

相馬大作事件(そうまだいさくじけん)」とは、文政4年(1821年)に盛岡藩士の下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代の途中に弘前藩主の津軽寧親(つがるやすちか)を暗殺しようとしたが未遂に終わった事件のことである。

この事件が起きた背景には豊臣秀吉時代からの因縁がある両藩の対立が根底にあり、当時日本一の兵学者・平山行蔵の元で門人として頭角を現し師範代を務めた兵法家・下斗米秀之進が、弘前藩主に果たし状を送るという前代未聞の暗殺予告を行ったのである。

鉄砲・大砲・紙砲まで準備していたが、密告によって事件は未遂に終わることになる。
江戸に逃亡した主犯の下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて隠れ住んだが、捕まって獄門の刑となった。

事件が明るみとなると噂好きな江戸っ子たちはこの事件を「赤穂浪士の再来」と騒ぎ立て、幕末に水戸藩で尊王攘夷論を唱えた藤田東湖に大きな影響を及ぼした。

この事件は後世になって講談・小説・映画・漫画の題材となり、下斗米秀之進こと相馬大作は武勇を持ち上げられて人気者になった。
今回は「相馬大作事件」について解説する。

事件の背景

盛岡藩(南部藩)と弘前藩(津軽藩)は、相馬大作事件が起きるはるか昔から仲が悪かったことで知られている。
それは豊臣秀吉が天下統一を目指して全国の諸大名に服従を呼びかけた時にまで遡る。

「相馬大作事件」

津軽為信

津軽為信は「津軽の梟雄」として常識では考えられない戦術を用いて小国の大浦城主から領土を広げ、元来同じ一族で主人であった南部氏に謀反を起こし勢力を拡大した。

当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった豊臣秀吉に、公家の近衛家や石田三成などを通して近づき恭順の意をいち早く示し、津軽三郡と合浦一円の所領安堵に成功し、津軽為信は晴れて大名の仲間入りを果たす。
当然、南部氏は怒ったが小田原征伐にもいち早く参陣する津軽為信の抜け目ない謀略により、手を出せなくなってしまった。

関ヶ原の戦いでは、為信は嫡男のみ石田三成の西軍につけ、自分たちは徳川家康の東軍につくことで真田家のようにどちらに転んでも良いように画策し、初代弘前藩主となった。

この頃から弘前藩は、東北北部一帯の勢力を握っていた盛岡藩(南部藩)との確執があり、特に盛岡藩南部氏は弘前藩津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。
正徳4年(1714年)に両藩の間で境界線を巡る「檜山騒動」が勃発するが、それも幕府の裁定によって弘前藩の帰属となってしまった。この騒動は相馬大作事件より107年も前のことである。

総じて隣り合った藩に争いごとはつきなく、全国諸藩でも隣り合う諸藩では大小のぶつかり合いは起きていたが、特に主人筋にあたる盛岡藩は弘前藩に対して大きな不満を抱えていた。

そして相馬大作事件が起きる前年に大きな出来事が起きてしまう。
文政3年(1820年)盛岡藩主・南部利敬が39歳で病没してしまったのである。

一説には、その死はそれまで官位では南部氏よりも下であった津軽氏が北方警備の功を認められて、それまでの従五位下から南部氏と同じ従四位下に叙任したことに憤り悶死したとも、弘前藩への積年の恨みで悶死したとも言われている。

その後、南部利敬の養子・南部利用が14歳で盛岡藩主となるが、若年ゆえにまだ無位無官であった。
しかも、藩の石高の見直しによって弘前藩は10万石となり、盛岡藩の8万石を越えてしまった。

盛岡藩としては、家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が上の地位になったことに納得がいかない状況であった。

下斗米秀之進とは

通称:相馬大作こと本名・下斗米将真(しもとまいまさざね)は、本姓は平氏であり、あの平将門の子孫である相馬師胤の末裔である。

南部氏に仕えて下斗米村の知行100石を得て下斗米氏と名乗り、数代を経て下斗米宗兵衛が紙蝋漆を扱う平野屋を興し豪商となり、数度の献金によって200石となり、その孫にあたるのが下斗米将真(通称:秀之進)であった。
ここでは一般的に知られる「秀之進」と記させていただく。

秀之進は次男で無類のきかん坊であったという。長兄は病弱であり父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを盗み聞きしてしまい、なんと脱藩して文化3年(1806年)に江戸に上った。

江戸においては実家の商売上の付き合いがあった美濃屋に4か月ほど世話になった後、知り合いの紹介で旗本の夏目長右衛門に入門し武術を修めることになった。
しかし、1年ほどで夏目が択捉島に派遣を命じられると、当時日本一の厳しさと変わり者なことで有名だった兵法家・平山行蔵の門弟となった。

「相馬大作事件」

平山行蔵肖像『近世名家肖像』より

平山門下生として兵法武術を学び、文武とも頭角を現した秀之進は門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。
平山門下には勝海舟の父・勝小吉や幕末の剣聖・男谷精一郎がいた。

文政元年(1818年)父が病気だと聞いた秀之進は帰郷し、郷里の自宅に私塾・兵聖閣(へいせいかく)を開く。
当初は武家や町人の子弟の教育にあたり数十人が入門したが、同塾は金田一に移転する。

移転にあたり兵聖閣はすべて門弟たちの手によって建設され、講堂・武道館(演武場)・書院・勝手・物置・厩舎・馬場・水練場などを備えていたという。
門弟は200人を超え、数十人が兵聖閣に起居していたのである。
その教育は「質実剛健」を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書に講じたと伝わっている。

さすがは「地獄稽古」で知られる平山行蔵の師範代を務めた秀之進である。北方警備が叫ばれる中で秀之進も門弟に「我が国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア帝国)なる。有事の時は志願して北海の警備にあたり、身命を国家に捧げなければならない」と諭しており、兵聖閣には大砲もあったという。

だが、遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されてしまい、財務担当で有能だった細井萱次郎がはやり病の「コロリ」で亡くなったことで、兵聖閣の経営状態は悪くなっていった。

事件の経過

盛岡藩の現状を憂いた秀之進は、文政4年(1821年)、弘前藩主・津軽寧親(つがる やすちか)になんと果たし状を送ったのである。

「相馬大作事件」

津軽寧親の肖像

その内容は「辞官隠居を勧め、それが聞き入れられない時には『侮辱の怨を報じ申すべく候』」という暗殺予告であった。

当然、津軽寧親は辞官隠居を無視したが、秀之進は暗殺を実行すべく動き出した。参勤交代で帰国につく津軽寧親を秋田藩の白沢村岩抜山(現在の秋田県大館市白沢の国道7号線沿い)付近で文政4年(1821年)4月23日に武装して待ち構えたのである。

この暗殺事件に参加したのは秀之進・関良助・下斗米惣蔵・一条小太郎・刀鍛冶の徳兵衛・案内人の赤坂市兵衛らで、大砲や鉄砲、紙砲で銃撃しようと待ち構えていた。
後世に創作された物語では、紙で作った大砲(紙砲)を持ち込んで1発撃ち込んだとあるが、実際には大名行列はこの現場を通らず、竹で作った小銃20門を秋田藩に持ち込んだとされている。(持ち込んだが実際には使わなかった)

なぜ、弘前藩の大名行列はルートを変更したのかと言うと、密告があったためである。
秀之進の父・総兵衛は仙台藩出身の刀鍛冶・大吉・喜七・徳兵衛を雇っていた。しかし彼らは代金が払われず仙台藩に帰郷出来ないでいた。
そのうち秀之進の暗殺計画を知り、身の危険を感じたことで彼らは事件の計画を弘前藩に密告していたのである。

そのため大吉・喜七・徳兵衛の3人はこの功績により弘前藩に仕官することになる。
こうして秀之進の津軽寧親暗殺計画は未遂に終わったのである。

事件後

「相馬大作事件」

相馬大作像

未遂に終わったとは言え、一国の藩主を殺害しようとした秀之進は「相馬大作」と名前を変え、盛岡藩に迷惑がかからないように江戸に隠れ住んだ。
当然、弘前藩は秀之進の行方を捜索した。すると相馬大作はなんと江戸で道場を開いていたという。

そして弘前藩の用人・江戸家老の嵩原八郎兵衛の配下の者に秀之進(相馬大作)は捕らえられ、文政5年(1822年)8月に千寿小塚原の刑場で獄門の刑に処せられた。享年34であった。
門弟の関良助も同じ刑場で処刑されている。

津軽寧親は藩に戻った後に体調をくずした。参勤交代の道筋を幕府の許可なく変更したことを咎められて体調を崩したと噂されたが、道筋の変更願いは参勤交代の途中で幕府に提出していたという。そして事件の数年後に津軽寧親は幕府に隠居届を出し、俳句などをして余生を過ごした。

結果的には秀之進の目的である津軽寧親の隠居は達成されたことになる。

弘前藩では「相馬大作事件」を盛岡藩の家老・南部九兵衛の計画によるものであると記録している。
盛岡藩では秀之進と関良助以外の事件の関係者を情報が漏れないようにするために牢に入れて、秀之進の息子と弟は盛岡藩が保護していたという。

事件の反響

時の老中・青山忠裕が自邸にて経緯を糺した際に、武士の立場から秀之進に同情を寄せたという話が残っている。
噂好きな江戸の庶民は今回の事件を「赤穂浪士の再来」だと騒ぎ立て、「みちのく忠臣蔵」などと呼ぶようになる。

後世になると講談・小説・映画・漫画などの題材として取り上げられ、噂好きな民衆は「秀之進の暗殺は実は成功し、弘前藩はそれを隠すために藩主が隠居とした」などと勝手な噂話まで流れたという。

藤田東湖

この事件は水戸藩の烈公・徳川斉昭と共に「尊王攘夷」の生みの親とされる藤田東湖に多大な影響を与えている。
当時15~16歳で江戸にいた藤田東湖はこの事件から刺激を受け、後に「下斗米将真伝」を著した。

東湖のこの書から影響を受けた儒学者・芳野金陵は「相馬大作伝」を著している。

長州藩の吉田松陰は北方視察の際に暗殺未遂現場を訪れ、暗殺が成功したか地元の住民に訊ね、長歌を詠んで秀之進を称えたという。

盛岡藩の御用人・黒川主馬らは「忠義の士・相馬大作」の顕彰事業を提唱し、南部家の菩提所・金地院境内の黒川家墓域内に供養碑が建立された。
この供養碑には頭脳明晰となる力があるとの俗信が宣伝され、御利益にあやかろうとする者が石塔を砕いてお守りにしたため、黒川家は補修や建て替えを数度もしたという。

江戸の妙縁寺には秀之進の首塚があり、秀之進の供養のため嘉永5年(1852年)には南部領の盛岡に感恩寺が建立され、初代住職には秀之進の息子がなっている。

江戸時代に講談の題材として取り上げられた「相馬大作事件」の種本や刊行物の類は現在では発見されていない。
明治になって相馬大作の武勇を持ち上げた講談が人気を博したが、一方的に悪者に仕立てられた旧弘前藩士らは抗議し訴訟にまでなっている。
警視庁は公演や芝居を差し止め刊行本を発売禁止としたが、結局押さえ切れず、表向きは看板をはずした中で芝居興業が続くほどの人気だったという。

おわりに

隣藩の1人の現役藩士が首謀者となり、たった数名で隣藩の藩主の暗殺未遂事件を起こした「相馬大作事件」は「赤穂浪士の再来」と呼ばれるほどの反響・影響をもたらした。

この事件は、江戸時代によく争いごとになった領地の境界を巡る問題よりも根っこは奥深く、豊臣秀吉の天下統一事業にまで遡る両藩の確執に起因する事件でもあったのである。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 2月 18日 11:21pm

    マジですか、流石はラポールさん、歴史好きな私しらなかった、ありがとうございました。

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