孤高の天才剣豪
人気漫画「バカボンド」に登場し、生涯住居を構えず剣の勝負に明け暮れた為「剣鬼」と呼ばれた破天荒な剣豪・伊藤一刀斎(いとういっとうさい)。
その伊藤一刀斎が立ち上げた流派が「一刀流」で、一刀斎から免許皆伝を受けた男が小野忠明である。
小野忠明は徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり、柳生宗矩と共に将軍家剣術指南役として召し抱えられた。
その弟、または息子と言われる男が、師・小野忠明に「師・伊藤一刀斎よりも強い」と評価された伊藤忠也(いとうただなり)である。
一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お抱えの流派として発展し、多くの有能な門弟たちが現れて幾つかの流派へと分かれ「北辰一刀流」や「中西派一刀流」など多数の流派が育ったことで現代剣道のルーツとも呼ばれている。
忠也は「一刀流」の開祖・伊藤一刀斎と同じように豪毅な性格で勤仕を嫌い、正統後継者でありながら歴史の表舞台にまったく登場しなかったという。
今回は剣鬼を超えた孤高の剣豪・伊藤忠也について解説する。
伊藤忠也とは
伊藤忠也(いとうただなり)は慶長7年(1602年)一刀流の剣術家・小野忠明(おのただあき)の弟、または子として安房国(現在の千葉県館山市)で生まれた。
小野家に生まれた忠也は「本朝武芸小伝」では小野忠明の子として父から「一刀流」を学んだとされるが、「寛政重修諸家譜」では小野忠明の弟とされ、共に一刀流の開祖・伊藤一刀斎から「一刀流」を学んだとされている。
「本朝武芸小伝」とは江戸時代中期の書物で、著者は天道流の達人・日夏弥助繁高(ひなつやすけしげたか)である。日本武芸列伝として最古のものであり、兵法・諸礼・射撃・馬術・刀術・槍術・砲術・小具足・柔術に渡って10巻より構成され、流祖について詳しく書かれた書物である。
「寛政重修諸家譜」とは寛政年間に江戸幕府が編修した書物で、諸大名や旗本などの将軍家御目見得以上の家譜集である。
どちらが正しいのか分からないので忠也が忠明の子か弟かは未だに分かってはいないが、「小野忠也」が本名である。
忠明から「一刀流」を学んだのは確かで、伊藤一刀斎から直接学んだのかは定かではないが、幼い頃から「一刀流」を学びメキメキ上達していった。
伊藤一刀斎と一刀流
伊藤一刀斎は伊豆大島の出身で、14歳の時に剣術で名を残そうと思い立ち、板1枚を抱えて伊豆大島から静岡県の三島まで渡ったという驚くべき伝説を持つ男である。
三島で「名人越後」で知られる富田流の使い手・富田一放を一撃で破り、江戸に出て冨田流・中上流の鐘巻自斎(かねまきじさい)の門下生となるも5年で師を倒し、他流派の判官流を学んで免許皆伝を授かり、山にこもって自らの兵法「一刀流」を立ち上げた。(※鐘巻自斎は佐々木小次郎の師という説もある)
一刀斎は住居を構えず旅をしながら旅籠に泊まり「天下一剣術之名人伊藤一刀斎」と書いた札を掲げて勝負を重ねていった。
その数は真剣勝負33回、凶敵を倒すこと57人、木刀で打ち伏せた人数62人、ただの1度も負けなかったという。
やがて、その名が全国に知れ渡り織田信長や徳川家康から声がかかったが、「誰にも仕える気がない、縛られることが嫌い、旅から旅の自由な暮らしがしたい」と言ってこの二人からの話を断ったという。
自由気ままに暮らし、ただひたすら剣の道・勝負の道を極めるために相手を探し続けた姿にいつしか「剣鬼」と称された。
一刀斎に勝負を挑み負けた者の中から一刀斎の弟子になる者が現れ、その中で秀でた者が小野善鬼と小野忠明であった。
一刀斎は2人に真剣勝負をさせ「勝った者に一刀流を相伝させる」として決闘をさせた。
その勝負に勝ったのが忠也の父か兄である小野忠明であり、一刀斎から宝刀「瓶割刀(かめわりとう)」と「一刀流」の伝書を授かったという。
その後、一刀斎は忠明の前から姿を消し消息は不明となり、破天荒な剣豪・伊藤一刀斎の最期は謎とともに伝説になった。
一刀流を継いだ忠明は2代将軍・徳川秀忠の剣術指南役として柳生宗矩と共に召し抱えられた。
正統3代目となるも
「一刀流」の達人となった忠也はやがて忠明から「師(一刀斎)に勝る」と評価され、正統後継者の証として宝刀「瓶割刀」を授かった。
これを機に忠也は、姓を小野から開祖である伊藤一刀斎の「伊藤」姓に改めて、「伊藤典膳忠也」と名乗った。
これにより「一刀流」は忠明の子・忠常が継いだ小野家の「小野派一刀流」と、忠也の「伊藤派一刀流」または「忠也派一刀流」とに区別されるようになった。
「小野派一刀流」は小野家では正式名称として「一刀流」と称し、梶派・中西派と有能な弟子たちが分かれ、その中から「天真一刀流」「北辰一刀流」「一刀正伝無刀流」と数多くの流派が生まれ隆盛を極めた。
忠也は開祖・伊藤一刀斎と同じように豪毅な性格で、勤仕を嫌い誰にも仕えずに生涯浪人暮らしをしたという。
表に出ることを嫌ったために、本来ならば「一刀流」の正統継承者として将軍家指南役にもなれたがその地位にはつかなかった。
忠也の「伊藤派一刀流」の内容は、開祖・伊藤一刀斎が鐘巻自巻から授かった奥義「高上極意五点」の形(一妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を最初に教えて、それぞれの系統によって居合・柔術などを付加したという。
忠也の門人には亀井忠雄と亀井八九郎という兄弟がいて、兄の忠雄は忠也から「一刀流」の正統後継者として宝刀「瓶割刀」と伊藤姓を受け継いだ。
その後、忠雄は伊藤姓を遠慮して「井藤」と改め、甲府藩主・徳川綱重に仕え、その長男でのちに6代将軍となった徳川家宣の剣術指南役を務めた。
忠雄の弟・八九郎は兄と同じように「一刀流」の印可を忠也から受け、剣術家として根来独身斎重明(ねごろどくしんさいしげあき)と名乗り、技に工夫を重ねて「天心独明流(てんしんどくめいりゅう)」(一刀新流とも)という流派を興して多くの弟子を抱えたという。
おわりに
伊藤忠也は江戸時代に隆盛を極めた「一刀流」の正統継承者でありながら、破天荒な開祖・伊藤一刀斎と同じように大名に仕えるのを嫌って生涯浪人として暮らし、慶安2年(1649年)に亡くなった。
「一刀流」随一の天才剣士と言われながら「どの位強かったのか」「どんな勝負をしたのか」などの詳細な記録や逸話は残っていない。
だが、高弟の亀井兄弟がその後、剣術家として名を挙げたことで注目されるようになった人物である。
伊藤忠也、一刀流は幕府と将軍家のお抱え剣術指南、そんな地位にありながら敢えて仕えず、おのれの剣に生きた開祖・伊藤一刀斎と同じように生きた剣豪。
よくぞ取り上げてくれました。
強すぎて小野派一刀流が伝説を隠したと言われた男。
尾張の柳生連也斎と勝負させたかった
初代・剣鬼伊藤一刀斎よりは破天荒ではないが力が上なのに剣術指南役を蹴って自らの剣の道に生きた
剣豪・伊藤忠也、さすがは草の実堂さんきましたって感じだね。